『武道館』
34信じられないことって
74男の人って
90突然、頭の中に
98大人になればなるほど
114無料で手に入るものとは
124最後の砦みたいなもん
126限りあるものから何か
127イメトレという〜退屈になっていく
189女性アイドルファンは
199今この試合を観ている
247今目の前にあるほとんど
257これまで話してきたこと
『推し、燃ゆ』がファン目線だとすると、こちらはアイドル目線。
推す側と推される側、双方の視点から浮かび上がる関係性の妙が、実に見事な表裏を成している。
アイドルが考えるアイドル像、幸福、そして人間らしさ。そうしたごく一般的な少女がアイドルになり、抱く葛藤や喜び。それが朝井リョウの手にかかると、これほどまでにソリッドでありながら融和的な面白さを孕んで描き出される。
『何者』が出世作として真っ先に浮かぶ朝井ワールド。これも映画として最初に観た時、普通の学園ものと一線を画し、結末の衝撃さもさることながら、伏せる箇所を変えるだけで、淡々とした日常がこうも違った景色として立ち現れるのかと驚かされた。
『武道館』でアイドルが「見られる存在」として揺らぐ姿を読んでいると、『何者』で描かれた、他者の視線によって自分自身まで変質していく感覚が重なってくる。朝井リョウが描く「人から見た自分」という主題を辿るなら、ここはやはり避けて通れない。
そこからも何作か読んだりはしていたんですが、語り口が面白いことからラジオなどでも耳にする機会が増え、この作品は『推し、燃ゆ』を探していた時に見つけた。
”推し”について関連がありそうなこと、最近フルーツジッパーにハマっている身としては激熱にほかならない。
主人公の幼少期に始まり、学生生活、アイドルとして、徐々にその歩みをもっての日常が語られていく。
何より目に浮かぶ光景の描写や表現が鮮烈で、開けた風景が眼前に一気に広がる。
とりわけ場面転換の意匠が見事。唐突な景色の分断が、驚くほど冴えわたっている。通常、これほど場面が飛ぶシーンが重なれば、混乱を招くか勢いが削がれるはずだが、本作ではそれを微塵も感じさせない。 むしろ効果が倍増しているような錯覚すら覚え、感情を前進させてくれる。
特に終盤でのそれは半端じゃなく、まるで映画を観ているかのような鮮やかな幕引きに至る展開。 ラストに向けた怒涛の畳みかけは、まるで自らが武道館に立っているような、あるいはライブに立ち会っているかのような臨場感を強いる。 この圧倒的な体感には、ただ痺れるばかりだ。
あとはアイドル側の葛藤の描き方。 かつては一般人であった彼女たちが、ある日を境に一般社会から切り離される。 しかしそれはあくまで疑似的な境界にすぎず、実際には一人の生身の人間。だからこそ二つの側面を同時に内包し、平野啓一郎の説く分人という概念を思い起こさせる。
アイドルになった瞬間、人は別人になるわけではない。それでも、誰と向き合うかによって違う自分が立ち上がるという感覚は、『武道館』の彼女たちを考えるうえで、「分人」という考え方と不思議なほど響き合っている。
その様相もアイドルの数だけあり、出てくるメンバー(当初は6人)、彼女らの年齢や生い立ち、思惑の祖語により変化が生じる。
その過程の描き方が妙に現実的に映り、自分の内面に秘める衝動と周囲に打ち明けることのバランスも極めて秀逸。
小難しい利権や大人の道理で動いているのは事実として、そこで動かされているアイドル達自身は同じ道理で動いていない。
主人公・愛子がアイドルを目指した理由。
「私はただ、歌いたいだけ、踊りたいだけなのに」というフレーズにすべてが凝縮されている。彼女はただ、純粋にアイドルという存在に憧れていただけ。
逆に、アイドルになりたかったわけではない、というメンバーが存在するのもリアルな対比であり、それぞれの選択、別々の歩みにも確かな説得力を付与している。
序盤で一人のメンバーが脱退するエピソード。その当時に抱いた感覚と、終盤に差し掛かってから感じる色合いはまったく異なって見える。思春期から大人へと移行する、あの不穏で美しい葛藤が見事に織り込まれている。
アイドルという存在に対し、私たちは同じ人間として同一視できないような、一種の信仰に近い錯覚を抱きがちである。
しかしいずれアイドルを卒業し、それぞれの生を営んでいく。永遠など存在しない。だとすれば、どこか一線を越えた先で、アイドルという仮面は必ず剥がれ落ちる。 それは仕事における肩書と同様、いずれ失われてしまう記号にすぎない。
なぜそこまで神格化してしまうのか。その理由は私にも判然としないが、生身の人間としての視座が抜け落ちることの危険性は、重く受け止めるべきだろう。 それが正のエネルギーとして昇華されているうちはまだ良いが、ひとたび負のそれに転じた時、双方に幸福な結末が訪れるはずもない。
日常と非日常を往還する葛藤。「ただ歌いたい、踊りたい」という衝動は、誰かを好きになり、衝動的に行動してしまう心の動きとも重なり合う。
推している側も同様。
衝動こそが人を突き動かし、また他者を動かす。 このような巨大なエネルギーは、時に負の側面へと引きずられがちだが、この物語を読むと、それは絶対に正の力として世界を照らしてほしいと願わずにいられない。
時代が変わり、アイドル像も変わる。
それでも、ラストの光景とそこに流れる詩。世代を超えて受け継がれる意志のようなものこそが、彼女たちをアイドルたらしめる養分となる。
誰かを糾弾することではなく、何かに光を見出すこと。それこそがアイドルであり、推すということの本懐ではないだろうか。 憧れを抱く理由は千差万別だが、最後には美しい光画に包まれるような、万人の幸福を祈りたくなる結末と思いたい。
では。
探幽:アイドルという存在の淀み無き思いこそを尊重したい
『武道館』で感じた「自分ではない誰かとして見られること」の違和感は、『何様』にも別の形で流れている。朝井リョウの小説では、人間はいつも自分だけでは完結せず、他者の視線によって少しずつ輪郭を変えていく。



