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探幽訪真:深く、自由に、偏りなく潜る

『オークストリートの異変』は恐竜映画なのに、最後は本能の話になる

『オークストリートの異変』

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アン・ハサウェイとユアン・マクレガーが共演し、平和な町を襲った異変から生き延びようと奔走する家族の運命を、圧倒的スケールでスリリングに描いたサバイバルスリラー。

プラット家の4人家族は、平和な町オークストリートで普通の毎日を過ごしていた。しかしある日を境に町で不思議な現象が起こりはじめ、水道や電気も完全に止まってしまう。不穏な空気が町を覆うなか、絶滅したはずの恐竜が次々と現れ、住民たちを容赦なく襲いはじめる。プラット家の家族は手近な武器を手に取り、さまざまな恐竜の脅威をくぐり抜けて町から脱出するべく奔走するが……。

一家の父グレッグをマクレガー、母デニースをハサウェイが演じ、「マイ・オールド・アス 2人のワタシ」のメイジー・ステラが娘オードリー役、「THE MONKEY ザ・モンキー」のクリスチャン・コンベリーが息子ブライアン役を務める。監督・脚本は「イット・フォローズ」「アンダー・ザ・シルバーレイク」のデビッド・ロバート・ミッチェル。製作には「クローバーフィールド」「ミッション:インポッシブル」シリーズなどのヒットメーカー、J・J・エイブラムスが名を連ねた。

夏といえば真っ先に浮かぶ映画ジャンルは恐竜か、はたまた怪談か。

この固定観念の由来は杳として知れぬが、いまだに感覚の根底に染み付いて離れない。そんな恐竜映画をロバート・ミッチェル監督が手掛けるとあって心待ちにしておりました。

予測の斜め上を行く展開はさすがの一言。夏にふさわしい恐竜映画の体裁を取りながら、そこには確かな不穏さが添加されている。

この監督の作品はどれも好みだが、とりわけ『アンダー・ザ・シルバーレイク』は幾度も再見した。

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平穏な街や日常に、不意に異端の楔を打ち込んでくる手腕が魅力的であり、本作でもその兆候は随所に散見される。 序盤は瑞々しい青春劇やファミリー向けの和気藹々としたドラマが紡がれ、仮構された生の充溢、すなわち映画的幸福感に満ちる。

子供たちがBMXを駆り、些細な紛争を繰り広げる光景は、名作E.T.のようなノスタルジーを喚起し、古き良きアメリカの神話的庭園を現出させる。

相棒としての犬が愛嬌という名のスパイスを添えるのも、失われた楽園の映画的記憶を補強し、物語の明朗なトーンを鮮やかに惹起する。

音楽の意匠もまた、素晴らしい。

圧巻のオーケストレーションを手掛けたのは、『ジュラシック・ワールド』や『カールじいさんの空飛ぶ家』のマイケル・ジアッチーノ。

劇中に配されたカーズやロキシー・ミュージックといった70年代末から80年代初頭のニューウェイヴは、時代の風俗を瑞々しく蘇らせる。一方で、ジアッチーノが紡ぐ旋律は、かつてのスピルバーグ作品を彷彿とさせる王道のフルオーケストラサウンドで迫力満点。

どこか懐かしくもダイナミックな管弦楽が、作品の緊迫感とノスタルジーを引き立て、その対比の妙は完璧な均衡を保っている。

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1. 作曲家:マイケル・ジアッチーノ
劇伴(スコア)を担当したのは、『ジュラシック・ワールド』シリーズや『カールじいさんの空飛ぶ家』『THE BATMAN-ザ・バットマン-』などで知られる巨匠マイケル・ジアッチーノです。

2. 90年代オマージュなのか?
結論から言うと、年代としては「70年代末〜80年代/初期アンブリン映画へのオマージュ」という色が強いです。

劇中曲(ライセンス曲):カーズ(1981年)、ザ・ヴェイパーズ(1980年)、ロキシー・ミュージック(1982年)、スターシップ(1981年)など、70年代末〜80年代初頭のニューウェイヴやクラシック・ロックが中心的に使用されています。

スコア(劇伴):スティーヴン・スピルバーグ作品(『ジュラシック・パーク』や『ET』など)を思わせる「90年代〜80年代の冒険・パニック映画の王道感」を感じさせます。

3. オーケストレーションの見どころ
ジアッチーノは現代ハリウッドでも屈指の「フルオーケストラを生かした伝統的でダイナミックなスコア」を得意とする作曲家です。

管弦楽の豊かな響きと、クラシカルなメロディラインが作品のスリルとノスタルジーを際立たせています。

一方で、劇中ではチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲などのクラシック名曲が効果的に使われる場面もあり、クラシカルなストリングスと劇伴の融合が見事です。

序盤から、不意に訪れる微細な違和感に苛まれつつも、黄金期の明朗なトーンに心は躍る。 本作は、カメラワークの設計も極めて示唆に富む。 登場人物たちの関係性を軽快なカット割りで同一画角に収め、小気味よいテンポで提示していく手法。音楽の軽妙さも相まって、この小気味よさは一種の癖になる魔力を帯びていく。

俯瞰という冷徹な視座によって切り取られた余白に、危険な空白を孕んだ構図は、こちらの不安を密かに煽り、緊迫感を高める。

車内や家屋の中から外の異常事態を捉える主観的視点は、観客をその閉塞感の中へと巻き込み、強烈な臨場感をもたらす。

終盤、恐竜に追われる家族を捉えた長回しのシーンは、緊迫した時間軸をそのまま接続し、恐怖と興奮を最高潮に達せしめる。

かと思えば家族会議的なる自宅での会話劇には近影と遠巻きに人物を配置し、二人を同一に収めて語り手と聞き手の表情を映しながらバトンリレーのように家族間の意思伝達、感情の移ろいを言語と表情で語らせる。

色々と視覚的な贅沢さに満ちたショットの連続。

エンドロールで気付いたのですがJ・J・エイブラムスも関わっており、CGだけに頼らず実写の特殊メイク・ミニチュア・実物セットを徹底的に活用したことも当時の雰囲気を醸し出せた一助となっている。

物語はその後、予想を遥かに超える転転を見せる。一見、定型的なパニック映画へと収束するかと思いきや、観客の期待はあっさりと裏切られる。スクリーンに恐竜が存在することは自明でありながら、お話は奇妙な流転を始める。これこそが監督の企てた皮肉の妙味であり、日常の至るところに異変が静かに侵食していく。

危機的な極限状態と人間的情念が美的な親和性を宿すのは、自明の理。本作もその要素は漏れなく満たされている。

ただし、それだけによらない、兎角どこを切り取っても、一辺倒にならない面白さがある。

とりわけ終盤、ユアン・マクレガー演じるグレッグに訪れる運命の過酷さといったら......。

各々が内包する葛藤が、未曾有の災厄を前に一致団結へと昇華されるかといえば、決してそう単純でもない。しかし、完全に拒絶し合うわけでもない。

この終始漂う調和なき不均衡こそが、本作の最も際立った体系性と言える。

破滅は驚くほど呆気なく訪れ、事態は極めて淡々と進行する。

もしこれが現実の地平に現出したらと想像すれば背筋が凍るし、そこにはいささかの猶予もないのだと突きつけられる。

人生とは一過性の断片的な瞬間の集積であり、それが連続することで辛うじて日々の営みとして仮構される。

この自明の真理を、予想外の流転劇がより艶めかしく、かつ生々しく現実として浮き彫りにする。

日常の懊悩も、他者との関係性も、脆い人生観も、極限状態においてはすべて本能という剥き出しの核心へと集約されていく。

同時に、あらゆる事象が一瞬にして最良にも最悪にも反転し得るという事実。世界を規定するのは、ただ我々の主観的な捉え方のみなのだと。

実際に恐竜に支配されると言うのはそうした支配によるメタ構造のようにも見え、弱肉強食こそが生の本質。

文明が過剰な豊饒さを獲得し、事象を複雑に捉えすぎるがゆえに、我々は余計な妄執を抱き、無為に欲してしまう。
本作は、そうした贅沢な迷いを一刀両断にぶった斬る。

価値観の転覆は、常に予期せぬ急襲として生じ、遅滞なく我々の世界を侵食していく。

女性性と男性性の差異、その現代的な断層を冷徹に着目している点も極めて興味深い。女性の思考は簡潔でありながら感情の真実に近く、一方の男性は理性的かつ論理的であろうと虚勢を張るものの、その論理が世界の核心を射抜いているかといえば、決してそうではない。

大人と子供の思考の断絶も同様だ。しかし、それら一切の知的偽装も、最後には本能という冷徹な取捨選択の前で無効化される。

さらに、衣裳という名の装飾的な意匠も存分に愉しませてくれた。

80年代アメカジのリアルな質感で統一され、見どころ十分。アン・ハサウェイ演じる母親のハイウエストデニムをはじめ、子供たちのグラフィックTシャツやナイロンジャケットなど、80年代の冒険・SF映画を彷彿とさせるノスタルジックでカラフルな出で立ち。

The End of Oak Street - Plugged In Movie Review

気取ってないけど、抜け目ないラフなお洒落感が全身を纏う。

The End Of Oak Street' is a prehistoric good time : Pop Culture Happy Hour  : NPR

ダサめなラグランポロなんかもこのスタイリングに落とし込まれると引き立ちますし、膝上のショーツも何か良い。カラーリングも絶妙なセンスで、80年代の良さが滲み出る。

The End of Oak Street: 5 New Character Posters Have Been Released

友情、愛情、そして勇気といった夏の必須要素を漏れなく充填し、夏映画としての正統な体裁も維持されている。

ですが最大の魅力はなんといっても一筋縄で行かない、物語の余白にほかならず、そこにこそ、監督独自の審美眼が最も色濃く投影されている。

ツッコミどころは多数ありますが、なぜか鑑賞後に泣けそうになってしまったのは、最大の謎でもあり、整合性などを度外視した映画というコンテンツの本質、「ただ心躍ればそれで良いということに気付け」と言われているようでもあり、枝葉を理解出来ずとも鑑賞後に良いと思うならそれで良しという、これまた本能的な判断に委ねられたのもまた、円環の帰結に至るのではないでしょうか。

相変わらず奇妙で唆られる作品を形作る監督だ。

では。

 

探幽:異変という名の奇妙さは本能に帰結するか

 

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『オークストリートの異変』で感じた、平穏な日常へ異物を差し込む感覚は、やはりこの作品にも濃厚に宿っている。何度観ても新しい違和感が浮かび上がる、ミッチェルという映画作家の核心に近い一作だと思う。

劇場で感じたあの大仰な管弦楽は、恐竜の恐怖だけでなく、失われていく日常への郷愁まで抱えていた。音だけを取り出して聴くと、この映画がどれほど「古き良き夏映画」の記憶をまとっていたのかが、もう少し鮮明になる。

『E.T.』や80年代の冒険映画を思い出しながら本作を観ると、そのノスタルジーが単なる引用ではなく、ひとつの「映画的幸福」の記憶として立ち上がってくる。そうした記憶の系譜を辿っていくと、映画というものが過去の時間をどう保存してきたのかも見えてくる気がする。