『愛の渇き』
杉本悦子は、女性問題で彼女を悩ませつづけた夫が急逝すると、舅弥吉の別荘兼農園に身を寄せ、間もなく彼と肉体関係に陥った。彼女は夜ごと弥吉の骸骨のような手の愛撫を受けながら、一方では、園丁三郎の若若しい肉体と素朴な心に惹かれていく。だが、三郎には女中の美代という恋人がいることを知った時、悦子は……。〈神なき人間の逆説的な幸福の探求〉を主題にした野心作。
未読のままにしていたが、放映中のドラマ『Tシャツが乾くまで』の劇中で看取し、強烈な惹起を覚えた一作。
折に触れて繙きたくなる三島文学だが、圧倒的な異なり語数に裏打ちされた類稀なる語彙の稠密性と、その格調高い優美な文体が織りなす情景描写には、ただ陶酔するほかない。
『愛の渇き』が刊行されたのは1950年(昭和25年)の上梓。前年に発表した『仮面の告白』で一躍脚光を浴びた三島が、その熱も冷めやらぬうちに世へ送り出した書き下ろし長編作品。
執筆当時の三島は、わずか25歳。
この年齢にしてこれほどまでの人間洞察と透徹した見識を備えていたことには、ただ感服するばかり。
ドラマとの紐帯を想定して読み始めたが、物語はより深淵な潮流を孕んでいた。主人公・悦子を機軸とし、全知の語り手による冷徹な分析を通じて、「生」における真の幸福を解き明かしていく。
誰もが幸福を希求するが、その希求は浅薄なおこがましさを孕み、その実体は霧散して定かではない。それでもなお願わずにはいられない人間の業。幸福の定義は哲学的な迷宮へと誘い、「答え」という名の幻影を追い求める。
幸せが何かというのはもはや哲学の領域となり、答えがあるようでないとも言える。
格調高い語彙の中、精緻な情景とともに、現代の読者にも戦慄的な納得感を強いる。この非連続の文体が普遍的な人生観へと昇華されるさまは、三島の筆致の「恐ろしき魔力」そのものである。
「幸福とは希望であり、羨望や欲望の謂いである。しかし、そこには揺蕩いが伏在し、相反する絶望や侮蔑、無欲をも不可避の養分とする。」
これこそが三島文学を貫く「アイロニー」の本質であり、多層的な心理の位相が絡み合う稠密な重層性を示している。
悦子の亡夫が死に瀕した場面に見る生への執着、弥吉や三郎の行動に投影される生々しい性欲。これらは各々が対峙する局面に現れる一過性の充足にすぎない。そこに永続的な調和はなく、ただ断片的な事象の集積のみが「時の幸せ」として仮構されている。
しかし、容易な成就は幸福を霧散させる。相反する負の事象、あるいは必然的な拒絶という「障礙」の存在なくして、真の幸福の輪郭は浮かび上がらないのだ。
誰もが覚えのあることだが、目的の達成は容易なれば無味乾燥、至難なれば葛藤に圧し潰される。この撞着した欲望こそが、人間の備える本能的で滑稽な「業」に他ならず、合理性を超えた厄介な深淵を形成している。
「生」の濃厚な上澄みだけを貪婪に享受したいという無益な渇望。それが決して叶わぬまま、悦子や登場人物たちが虚しい充溢を求める過程は、あまりに滑稽で、かつ痛々しい。
興味深いのは、既定の事実に対しては「諦念」が機能し、それが過去の追憶として完結していく点である。その描写における文字通りの一貫性と、圧倒的な構成力には、ただただ舌を巻くほかない。
物語の骨格を超えて、文章そのものが豊穣なる美を付与するその筆運び。
では、本作とドラマはいかなる類縁を持つのか。
第3話までの印象を敷衍すれば、それは「飽和した関係性と、その深層に潜伏する欲望の表出」に他ならない。
小説世界と同様に、「不可知なる内面」狡猾で卑俗な側面をも冷徹に描き出し、どのような展開を辿るのか。
やはり三島の文体は、読者を芳醇なる劇的空間へと誘う。
では。
探幽:望むから欲すのでなく、欲すから望む
22人間は贋物になりきれるほど
23歩くために靴が要る
65ここでは生命は、是認される
76何も望まないということ
88遠方の古い天守閣
121人生が生きるに値しない〜123鎧にすぎないのだ
124現在がすでに追憶
193これ以上のどんな事態が
229苦痛をとおしてはじめて
美への不可能性と相反する破壊衝動が描かれたこの結晶のような物語は、成就しえない幸福を渇望する悦子のありようと深層で繋がっている。文体の稠密さがもたらす密室の熱量に浸るための、もう一つの確かな道標。
『愛の渇き』の冷徹な全知の視線へと至る直前、24歳の三島が自らの肉体と内面を鋭利に解剖してみせた記録。ここに刻まれた自意識の閃光を辿ることで、彼が描く人間の業はより一層の陰影を帯びて立ち現れてくる。


