『急に具合が悪くなる』

「ドライブ・マイ・カー」「悪は存在しない」の濱口竜介監督が、パリを舞台に同じ名前の響きを持つ女性2人の魂の邂逅を描いたドラマ。がんの転移を経験しながら生き抜く哲学者・宮野真生子と、臨床現場の調査を積み重ねた人類学者・磯野真穂が交わした20通の往復書簡「急に具合が悪くなる」を原作に、偶然出会った2人の女性の交流と世界に対峙する姿を描き出す。
パリ郊外の介護施設「自由の庭」で施設長を務めるマリー=ルー・フォンテーヌは、入居者を人間らしくケアすることを理想としながらも、人手不足やスタッフの無理解に悩まされていた。そんな中、日本人の舞台演出家・森崎真理と出会ったマリー=ルーは、がん闘病中の彼女が描く演劇に勇気をもらう。同じ名前の響きを持つ偶然に導かれて交流を始める真理とマリー=ルーだったが、あるとき真理は急に具合が悪くなる。真理の病の進行とともに2人の関係は深まり、互いの魂を通わせ合うようになっていく。
「ベネデッタ」のビルジニー・エフィラがマリー=ルー、「ウルヴァリン:SAMURAI」などハリウッド映画にも出演する世界的ファッションモデルのTAOこと岡本多緒が真理を演じ、真理が演出する舞台の出演俳優・清宮吾朗役で「敵」の名優・長塚京三、吾朗の孫・窪寺智樹役で「見はらし世代」の注目若手俳優・黒崎煌代が共演。2026年・第79回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、ビルジニー・エフィラと岡本多緒がそろって女優賞を受賞。岡本は日本人で初のカンヌ国際映画祭女優賞受賞を果たした。
196分。まず3時間越えということで怯みそうな時間ながら、濱口監督作品となると観たいが勝る。
結果的に長さを感じないわけでは無いが、物語、会話劇の面白さから意外とサクッと観れてしまった。
予告などを観ずに行ったのですが、メインテーマとしては結構重そうだなと感じるような介護や病に関する話を中心とした展開。
そもそも原作が存在するというのも鑑賞後に知ったのですが、これに独自の解釈を交えて構成した映画というのが驚きでした。
実際、原作に関して
原作は、哲学者・宮野真生子と文化人類学者・磯野真穂による同名の往復書簡集(晶文社/2019年)。
癌の転移を抱え「いつ急に具合が悪くなるか分からない」哲学者と、医療現場を研究する人類学者が、死の影と向き合いながら「病とともに生きること」「偶然の出会い」について命がけで交わした20通の議論の記録です。
映画では舞台をパリに移しフィクションとして再構想されていますが、死を見つめながら魂を通わせる強い切迫感と体温は、この実在の往復書簡から確かに受け継がれています。
死の影を抱える哲学者と人類学者が交わした言葉の熱量は、パリの街へ舞台を移した映画の呼吸のなかにも静かに息づいている。不確実な日常のなかで他者と向き合うための切迫した思索が、ここには綴られている。
ちなみに原作者の磯野真穂さんのインタビューも興味深いので、是非。
序盤からフランス語を中心とした会話が続き、画のルックもフランス的なる雰囲気が漂い、なぜかフランス映画を観ているような印象を得る。
フランス語が多く出てくるのでそう感じるのかと思っていた部分もあるのですが、それ以上に装いがフランス的なんですよね。光の受け具合であったり、情緒的なゆとりであったり。
実際、濱口監督はエリック・ロメールからの影響を受けていると述べていることもあり、そうした部分は多分にあるのだろうとは思うのですが。その部分を少々。
1.「対話(ダイアローグ)」を中心とした映画作り
エリック・ロメールといえば、登場人物たちの会話や議論そのものが映画の魅力となる「言葉の映画」の巨匠。濱口監督も『ドライブ・マイ・カー』や『偶然と想像』、そして『急に具合が悪くなる』に至るまで、登場人物たちの会話の応酬や緻密なダイアローグを通じて、感情の揺れや関係性の変化を描くスタイルを徹底している。
2.会話劇をエンターテインメントに昇華させる姿勢
濱口監督はインタビュー等でも、ロメール作品(特に『モード家の一夜』など)を引き合いに出し、「哲学的な対話を交わしながらも、それをエンターテインメントとして成り立たせる」というフランス映画の系譜を意識していると明かしている。
3.物語を動かす「偶然」というテーマの共通性
ロメール映画の大きな特徴である「運命的な偶然」や「日常のふとした出来事から動く人間関係」。『急に具合が悪くなる』でも、異なる背景を持つ二人の女性(マリー=ルーと真理)が「名前の響きが同じ」というふとした偶然から出会い、魂を通わせていくプロセスが描かれており、この「偶然を祝福する構図」にロメール的な思想が息づいている。
見えざる奇跡や偶然の訪れを静かに待ちながら、人々が言葉を交わし散策を重ねる。ふとした日常のゆらぎの中に救いを見出す視線は、本作が佇ませるロメール的な余白とも地続きのところで響き合っている。
それにしても濱口作品は情報量が多い。
会話劇を中心に構成された作品が多いというのがその理由だとは思うのですが、単なる会話から意外なところに繋がったり、余波として影響したりということもあり、一度では理解に限界が生じる。
その”限界”というワードも今出てきたので拾っておくと、限界を享受する、受け入れるという姿勢の重要性について問うていたのも印象深かった。
頑張り過ぎる世の中の風潮に対し、どんなに頑張ろうと限界が生じるということを当たり前だと明示する。
意外に皆頑張りがちなんですよ。現代に生きる人は。自分を含めですが。
それに対し、限界を認めたうえで、どのように判断、行動すべきかという諭しが、意外にズシリと来るといいますか。
受け入れることが必要と説くんですよね。
中盤に登場する”資本主義”というのがまさにその限界を見出だせず、というか見出さず、外に外に所在を転嫁させているという。あのホワイトボードでの説明などはまさに現代の縮図であり、個人の内包する根本でもあり。よくぞあの構造を今の世にストレートに示したなと感心の念を抱く。
時間的な概念を引き合いに出すこともそう。
認知症の方が”点”で時間を捉えているのに対し、通常、人は”線”で時間を捉える。それ自体に意外性は無いものの、地続きである人生という名の線が続く。
本当は線として全うしなければいけなかった人生が、何かをきっかけに点となってしまうように思え、それが若年性となれば、単なる老いなどでは無く、無理(限界)を認知できなかったから、支障をきたしてしまったのではないかと思えてくる。
身体の不調は警告を知らせるものであるというのは良く聞く話ですが、それに耳を傾けられない世の中になってしまっているなというのが正直なところ。
働くという構造自体もそうで、それが資本主義に包括されている以上、生産性、収益性を伴わなければ運営できない現実と共鳴することも理解できる。
介護施設で起きている現象がそうした資本主義をミニマライズした現場として描かれているようにも見え、至るところで生きづらさと不合理が満ちている。
それに対し、打つ手を模索する主人公たちというのは資本主義に対するアンチテーゼのように映ってくる。
「合理性が果たして本当に合理的なのか」というロジックに矛盾を感じると同時に、作中の劇中劇に登場する「普通に見える人は本当に普通なのか」ということとも密接に関わる。
劇中劇が秀逸なのもありますが、濱口監督は本当に劇中劇が好きだなということも改めて思いますよね。大抵の作品に出てきますし。
そんな劇中劇タイトルの原題にもなっている「Da Vicino Nessuno è Normale(近くで見れば、誰もまともではない)」というワード。精神医学の格言に由来する、非常に印象的なセリフとも密接に関わるところであり、作品自体の骨子としても効いてくる。
そんな格言に関して。
1. 「健常/異常」「普通/そうでない」という境界線の揺らぎ
介護施設で働くマリー=ルーは「施設で暮らす人々(ケアされる側)」と「社会で暮らす健康な人々(ケアする側)」の境界線に悩んでいます。
劇中劇のセリフは、「一見すると“普通”に社会生活を送っている側も、距離を縮めて深く見つめれば、誰しもが狂気や生きづらさを抱えている」という事実を突きつけます。「普通」という枠組み自体がいかに曖昧で幻想的なものかを問い直す意味合いがあります。
2. 「急に具合が悪くなる」のは誰にでも起こり得るという事実
真理自身がStage IVの癌を抱え、ある日突然「急に具合が悪くなる」ように、人間の身体や精神はいつ崩れるか分かりません。
「いま普通に見えている人」も、単にたまたま今は健康で、偶然“普通”の側に留まっているに過ぎないということです。他者を「自分とは違う普通じゃない人」として切り離すのではなく、自分もいつ当事者になるか分からない一続きの存在なのだと捉え直す視点が含まれています。
3. 「離れて見る」から「近くで見つめる(Da Vicino)」へ
人は遠くから見ている間は相手を「普通の人」「病気の人」「障害のある人」といった記号やラベルで捉えがちです。
しかし、マリー=ルーと真理が互いの足の裏をマッサージし合うような「圧倒的な近さ(Da Vicino)」で向き合ったとき、そうした記号は剥がれ落ち、生身の揺らぎを持った一人ひとりの個人が現れます。あのセリフは、他者と真に深く関わること(=近くで見つめること)への招待状のような意味を持っています。
境界線をぼやかすというのは劇中にも作中にも登場するわけですが、それは現在の世の中がそうした明確な線引きでは成り立たなくなってきているということを示しているのではないかと思いますし、急に具合が悪くなるという病も同様、健康と不健康の狭間も曖昧で唐突なものであるというのも一緒ではないだろうかと考えられる。
そういえば、話は飛ぶのですが、作品を観ていて意外だった点があありまして。
それが、「何か嫌なことが起きそうに見えて、実は何も起きない」ということ。エンドロールまで頭の片隅に引っかかる跋扈たる不安があったんですけどね。
危なっかしい局面が所々に見られ、テーマや設定的にも。何なら画的にも予期せぬ嫌な予感が終始散見されていたというのに・・・。
それが何も起きない。
点と線であり、偶然と必然。この起こりそうなことは意外に起きないというのもまた不確実なところだとすると、人生はそう逼迫して捉えるものでも無いのかもしれないとも思えてくる。
生き辛い世の中をどう生きるのか。人との関りや、歩みをどのように行うのか。
境界線の中和という意味ではマリールーとソフィのやり取りであったり、真理との関わりの中から見出せるコミュニケーションや対話の必要性も感じられました。
争いや齟齬が起きる背景には対話の不十分さが根底にあるのではということを痛切に感じさせるところでもあり、逆に言えばそれがとれていれば理解出来る部分も出てくる。
100%の理解は不可能で限界があるというのも理解したうえで、なお、対話が必要だと思わせてくれるのは、生きるということそのものが関係性の中からしか見いだせない事実なのだろうというところに帰着するのもまた面白い構造だなと思う。
受け入れること、境界を無くすこと、全ては異質であるが同質の元許容することに始まり、それこそが必要なのだと。
歩くということも同じく。
身体の基本的な運動にして、しなければすぐに衰えとして出てきてしまう行動。
その行動としての重要性と、作中内でのマリールーと真理が親密になるきっかけとしての”歩く”というのも印象深い使い方がされており、長回しで撮られた二人の親交を深めるあのショットは良きものでした。
個人的にはリチャード・リンクレイター監督作品ビフォアシリーズを彷彿とさせ、街の空気感、2人の間の会話のテンポが心地よくシンクロし、まるで一緒に散歩しながら彼女たちの話に耳を傾けているような感覚に陥りました。
街を歩き、歩調を合わせながら言葉を交わし続ける移動の行為そのものが、ふたりの距離を少しずつ手繰り寄せていく。限定された時間のなかで紡がれるダイアローグの心地よいテンポは、あの長回しのショットの余韻とも美しく重なり合う。
期限付きであるという制約もあり、共に歩く(=前へ進む)という物理的な移動の行為そのものが、2人の心理的な距離を縮めていく演出になっており、異なるバックグラウンドを持つ2人が、歩調を合わせるようにして魂を通わせていく姿というのはまさに”対話”と”歩く”双方の必要不可欠な事柄を通して得られる関係性という、不可欠な要素を感じずにはいられない。
役者陣も全員素晴らしく、表情、言語によるやり取りや所作から、意味のある動作を紡ぐ。
まだ一度しか観ていないので全然咀嚼しきれておりませんが、長さ含め、絶対に映画館で観ることをオススメします。
探幽:現代が過敏になり過ぎているだけで、危うげなことは意外に起きないのかもしれない。
では。


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