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探幽訪真:深く、自由に、偏りなく潜る

映画『A』が暴いた、被害者でも加害者でもない「傍観者」という悪意のエンタメ化

『A』


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オウム真理教の広報部副部長、Aこと荒木浩を中心に、オウム事件以後の彼らを追った長篇ドキュメンタリー。TBS問題を契機に封印されるはずだった150時間にも及ぶ素材を作品にまとめた。監督はフリーのテレビディレクター、森達也。家庭用デジタルカメラを手に様々なオウムの施設に足を運び荒木浩を追った。森と共に撮影/編集の補助を担当し、製作を手がけたのは「部屋 THE ROOM」を製作した安岡卓治。音楽は朴保バンドの朴保。キネコ。16ミリ。

ドキュメンタリーとはかくあるべし。

作られたもので無く、本当にその場で起きているリアルを撮る。中立で俯瞰的な視点というのは絶対に必要であると思いつつ、手掛けた森達也さん曰く、「主観的な視点は必ず入ってしまう」という側面を明言している。

その理由を聞くと納得するところではあるのですが、そもそも撮っているという時点で少なからず何を撮るか決定しているわけで、それが主観的視点にもなり得るということ。

確かにドキュメンタリーと聞くとあくまでもその場をただ撮影したように思えますが、言われてみれば撮影者の意図が入るというのはなるほどな視点。

最近だと上出さんの『健康チャンネル』にハマっていることで、ドキュメンタリーへの熱が高まっているわけですが、見せかけのそれより、事実は小説より奇なり。

往々にして現実は混沌としていて、そこに生きる人々の思想もまた混沌としているというのにひどく興味を惹かれている。


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映像という枠組みからあえて言葉へと溢れ出た、世界の果ての「食」と「生」の記録。美化も断定もしないその文章は、私たちが安全な場所から見つめる現実が、いかに脆く主観的なものであるかを静かに突きつけてくる。

組織の理念や社会のバックボーンが提示する「正しさ」に、私たちはどう抗い、自分の足で立てばいいのか。ビジネス書の体裁をとりながらも、その根底にあるのは混沌とした社会をサバイブするための、極めて誠実なドキュメンタリストの眼差しそのものだった。

この作品では当時一大事件となった地下鉄サリン事件、オウム真理教のその後にフォーカスして撮影されているわけですが、あの時ニュースや紙面などで述べられていた情報が本当に真実だったのかと思わされる。

起きたこと、起こしたことは確実に存在するし、そこに疑いはない。

でも、事件以外の点、オウムでの日常やそこで暮らす人々、観るまではそちら側で無い視点のみにフォーカスが当たっていたように思うし、この内容が地上波で公開出来なという理由も理解できる。

自身に置き換えても言えることで、被害者になれば、加害者の論理などはどうでもよく、被害にあったという事実にのみ焦点を当てるというのは心理としては理解できる。

もしくは他人事ですよね。

被害者でも加害者でも無いとなればそれは他人事でもあり傍観者でもある。そうなると途端にその事柄が噂話や陰謀論といったエンタメ化してしまい、攻撃する側、される側という端的な構図が立ち昇る。

これが日本人の気質である同調圧力と相まることで全体主義的にその様相は一層高まる。

特に警察やメディア、近隣住民などを見ていると露悪的な側面が見えるというか、物事を断定したような、恣意的な行動や言動に感じられてしまう。

当事者であればまだしも、そうでない人間たちがなぜ断定的に行動出来てしまうのかが理解し難い。

感情的にそれが先行するのは理解できるが、だからといってあそこまで過剰に行えるというのはそれを正とする無言の圧力、社会という絶対的なバックボーンが存在するからだということは間違いないかと思う。

他方で感じたのが、メインで登場する荒木浩という広報部長が本当に何を思い、感じていたのかということ。

オウム信者全員に言えることでもあるが、特に荒木さんに関してのその思いは強く、序盤での信仰についての発言は理解できる。

その後の各所への対応というのも基本的には合理的であって、感情論で語っていない冷静な側面も納得できる。

ですが、終盤になり、事件の真相や実行犯たちの輪郭がはっきりとしてきたところで問われる場面において、徐々に整合性を欠くというか、本当にそう思っているのだろうかという疑問符が頭によぎる。

当初、教団の思想に賛同し、尊師と呼ばれる麻原に傾倒した。その対象が虚構だったかもしれないという事実に気付いていないわけは無いし、可能性として見出せない頭の持ち主でも無いと思う。

そんな印象の彼が、答える時に躊躇し出すんですよね。答えを勘案するというか、どういうべきかというような。これが凄く印象的で、信仰の真実がそこにあるような気もしてしまい。

実際に信仰というのはその事柄に対して信頼がおけるから成立するもので、そこに疑念を抱いてしまったらそこまでの自分を否定することにもなるし、今後の指針も見失うことになってしまう。

それって非常に怖いことですよね。

「なぜ?」という疑問符を付けた途端に考えなければならず、考える以上答えが出るまで考え続けなければならない。

例えばですけど、自分が絶対に入りたいと思っていた職場に圧倒的なカリスマ性を持ったトップがいるとして、そのトップが社の理念を蔑ろにし、私腹を肥やし、社の為という建前を利用していたということが明らかにになったとしたらどうか。

その人への信頼、その会社への信頼、それを共にしていた仲間、そして何よりそれを良しとしていた自分自身。

会社を辞めれば目先の問題は解決するかもしれない。ですが、会社自体にそうした構造が渦巻いていて、人間にその偽善性が内包されていると大きな枠組みで知覚してしまったら。

辞めたとて、自分の中に生まれてしまったこの疑問が拭い去られることは無くて、ずっと心に巣食うことになってしまう。

なんか自分には荒木さんがその葛藤の中にいた様子というのが正直に映されていた気がして、森さんと終盤で話すシーンなどはそれが表情、間、言葉の端々に表れていた気がしてならないんですよ。

何がそれぞれの心に宿っている真実かはわかりませんが、嘘の無いドキュメンタリーというのはこうも人に響くところがあるのかという映像の力。

真摯に見つめる視点と、不意に現れる葛藤。『福田村事件』もそうでしたが、森さんの忖度の無い視点というのは本当に響くところがあります。

では。

A

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カメラを向けるという行為そのものが孕む、逃れられない主観と傲慢さについて、監督自らが思考を巡らせた一冊。映像の枠組みを超えて、私たちが日々消費している「客観的な事実」というものの危うさを静かに突きつけてくる。