『舞台 サド侯爵夫人』

【新装版、新・三島由紀夫】
炙り出される「エロスの咎(とが)」、「貞淑な妻」の本意とは?
「サド侯爵夫人」は澁澤龍彦に感化され執筆。芸術祭賞を受賞した。〔新解説〕平野啓一郎
倒錯した愉楽の使徒・サド侯爵。風俗壊乱で獄にある彼を、妻ルネは十八年にわたり待ち続ける。だが釈放の刹那、一転、修道院へと向かう決意を固め……。果して妻は、夫の何を信じていたのか(「サド侯爵夫人」)。
舞台というのはほとんど観ないのですが、せっかくCL視聴でWOWOWに加入しているのでと思っていたところ、三島の戯曲がやっているではありませんか。
しかも、東出昌大が出ている。そして懐かしの成宮寛貴も。
ということ鑑賞したのですが、舞台とは本当に難しいものだなというのがまずもっての感想。
演者も然りですが観る側にももそれなりの胆力が要求され、本質的理解を考えると、ある程度の知識があった方が良いことは間違いないのではないでしょうか。
主題がどういったものなのかということも当然あるとは思いますが、それでも限られた舞台装置という限定空間。その中で深い物語を構築する必要があるというのは相当なエネルギーがいるというもの。
そんな『サド侯爵夫人』なのですが、原作は三島の戯曲ということでその辺をおさらい。
戯曲とは何か
戯曲とは、舞台で上演されることを前提に書かれた文学である。小説のように情景や心理を地の文で細やかに説明するのではなく、人物たちの台詞、沈黙、動き、入退場によって物語が進んでいく。言葉は説明ではなく行為となり、会話そのものがドラマになる。
読む者は文章を追いながら、同時に頭のなかで舞台を立ち上げることになる。誰がどの位置に立ち、どの声で語り、どの沈黙を選んだのか。そこまで想像してはじめて、戯曲は豊かに開かれていく。
だから戯曲には、書かれている言葉以上に、書かれていない余白が重要になる。視線の揺れ、間の長さ、声の震え。そうした目に見えぬものまで含めて、一つの文学となる。読む作品でありながら、演じられてなお完成する文学。それが戯曲である。
ようするに戯曲というのは「読んで脳内で映像を再生するための文章」ということ。
三島の作品として、戯曲なども有名なのは知っていたのですが、実際舞台で行われているのを観たことなく、その点新たなる発見も。
そんな舞台で観た印象として、真っ先に感じるのは異様な迫力とそこでも生きる三島の言語感覚。
言葉の力、生々しく美しいところにこそ惹かれてしまうということを改めて思い出させてくれ、そこに演者の肉体的な情感がいっそうの説得力を被せる。
原作、『サド侯爵夫人』を理解する手がかりとして、こちらもざっくり。
『サド侯爵夫人』とは何か
『サド侯爵夫人』は、三島由紀夫が書いた代表的な戯曲のひとつである。題名にはサド侯爵の名が置かれているが、当の本人は舞台に姿を見せない。作品の中心にいるのは、侯爵を取り巻く六人の女たちであり、彼女たちが語る言葉のなかで、ひとりの男の像が浮かび上がってくる。
そこで問われるのは、善悪の単純な判断ではない。愛とは何か、信じるとは何か、肉体と精神はどこで結びつき、どこで離れるのか。ひとりの人物をめぐる会話は、やがて人間そのものへの問いへと変わっていく。三島由紀夫らしい、美と退廃、純粋と破滅の気配をまといながら、静かな言葉の応酬だけで緊張を生み出す作品である。
華やかな十八世紀フランスを舞台にしながら、その奥にあるのはむしろ日本的な覚悟や様式美かもしれない。『サド侯爵夫人』は、人物を描くというより、人が他者をどう見つめ、どう信じ、どう拒むかを描いた戯曲である。
そもそもSMにおけるサドの語源になった人物であり、それが時代背景、文化的背景においてどういう存在だったのかということが重要になるわけですが、端的に、貴族社会の衰退とフランス革命による価値観の転換がベースとなっている。
要は「今まで信じられていた価値観が突然180度変わってしまう」という渦中の中心人物的な人物として描かれるわけです。
当たり前と思っていたものが一気に変容する。
これって非常に怖いですよね。
今まで普通だと思っていたことが異常となる可能性を孕み、異常だと思っていたことが当たり前となる。
現在にも全然当てはまることであって、不倫やバズり、未婚なども同様に捉えられるかもしれない。
そうした時に人はどのように選択し、何を正として行きていくのか。
あくまでも舞台主体の観点から記しますが、まず本来なら登場人物は全員女性のところ、登場人物は全員男性が女性を演じているという点がまず興味深い。
宮本亞門演出ということですが、その設定とミニマルな世界観が秀逸で、物語の骨子に接近できるところが面白い。
そして演出こそ三島十八番というのが”仮面の演出”であり、登場人物が観念であったり価値観の化身のような役割を果たしているということから、より人たるものというよりは様式的な存在として認知しやすいような設定となっているのも見逃せない。
鑑賞している中、自分がどのような価値観に揺り動かされ、どのようにその心理が変化するのか、同時に、舞台上で演者がどういったことに重きを置いて存在しているのかということに向き合わされる。
ここまで極端に各人に価値観を割り当ててもなお読めぬ部分、理解できぬ部分が存在するというのは舞台ならではの生身の人間から発せられる存在感であり、われわれの日常においても一筋縄で他人をラベリング出来ないということを良く理解できる。
しばしば劇中でも出てくるのですが、「汚らわしさと純潔」といったような相反するような側面を人はそもそも内包しており、だからこそ理解し難いというのはまことにその通りだと思っていて、一面的な人間などというものは絶対に存在し得ない。
一面的なのであればそもそも仮面を被る必要など無く、偽善や虚偽といったことを働く必要も無い。
その只中に生きているということは誰しもが薄っすらと自覚しているものの、抗えない局面や状況により己の身のふりを変えてしまう。
この葛藤こそが本作の肝だと思っており、それを生身の人間が演じるということに意味があるというのは当然の帰結といえばそうなるわけです。
生で観たほうがこの血の通った空間を共有できるという意味でも満足度は格段に違うのでしょうが、それでも舞台をこのような形で観られるようになったというのも便利な世の中になったなとも思うわけです。
ラストでサド侯爵夫人であるルネがある決断を下すのですが、これがまた舞台となると抜群の余韻を残すわけで。
原作もこちらは読んだことが無かったのですが、是非読んでみようかと
では。

