『白夜(1971)』

フランスの巨匠ロベール・ブレッソンが、1969年製作の「やさしい女」に続き文豪ドストエフスキーの短編を翻案して描いたドラマ。
孤独な画家の青年ジャックは、理想の女性との出会いを妄想しては、その思いをテープレコーダーに吹き込んでいる。ある夜、ジャックはセーヌ河にかかる橋、ポン・ヌフで思いつめた表情の美しい女性マルトと出会う。マルトは恋した相手が1年前にアメリカ留学に発ち、「結婚できる身分になったら1年後に会おう」と言われていたが、1年が経ったその夜に相手は現れなかったのだという。マルトに熱い気持ちを抱いたジャックは、彼女が約束の相手に会えるように尽くすが、相手は現れない。そしてやがて、マルトの心もジャックに惹かれ始める。
舞台は原作の19世紀ペテルブルクから、撮影当時のパリに移されている。日本では1978年に劇場初公開され、2012年に35ミリニュープリント版が公開された。2025年、4Kレストア版でリバイバル公開。2026年にも、「ロベール・ブレッソン傑作選」にてリバイバル公開。
巨匠ということ、フランス映画ということ。
映像的な美しさ、映画としての作法、映画史的敷居の高い作品ということは想像していたわけですが、初見にして衝撃しかない。
もちろんフランス映画と自らの相性というところもあるのは承知の上、映画然とした、とんでもなさを見たような気がする。
正直なところ面白いか、内容が理解出来たかということについては否である。
鑑賞後も友人と「何が言いたい映画で、どういうことが表現されていたのか理解に難い」というような会話をしたわけですが、本当にその通り頭の整理が追い付かない。
スピード感や展開がといったようなことでもなく、ただただ整理が出来ない。
ある意味で私の好きな監督、デヴィッド・リンチ以上とも言え、別角度からの異世界探訪。
そもそもドストエフスキーの短編をもとに撮られた作品であり、その時点で硬質な仕上がりになるであろうことは想像できる。
そこで少々ドストエフスキーについても。
1. ドストエフスキーってどんな人?
19世紀ロシアを代表する文豪です。彼の作品を一言で表すなら**「魂の解剖学」**。人間の心の奥底にある醜さ、聖人性、矛盾をこれでもかとえぐり出します。激動の人生: 若くして死刑宣告を受け、執行直前に特赦(減刑)されてシベリアへ流刑。この「死に直面した経験」が、彼の宗教観や人間観に決定的な影響を与えました。
主な代表作: 『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』『白痴』など。どれも重厚で、「神はあるのか?」「正義とは何か?」という究極の問いを突きつけてきます。
2. 初期の名作『白夜』のポジション
『白夜』は1848年、彼がまだ20代の頃の初期作品です。後の重苦しい大作群と比べると、非常に幻想的でロマンチックな雰囲気を持っています。「空想家(ドリーマー)」の物語: 主人公は、現実の世界に馴染めず、自分の頭の中の空想で生きている孤独な青年。これは当時のペテルブルグに実在した若者たちの肖像でもあります。
4日間の切ない恋: サンクトペテルブルグの幻想的な「白夜」を舞台に、孤独な男女が心を通わせる、短くも美しい(そして残酷な)物語です。
原作のペテルブルクから舞台をパリに移し、ブレッソンが撮ることによって、フランスの街並み、光の加減、柔らかく情緒的な映像と化す。
冒頭からの流れが特に印象的で、静寂の街並みにぼんやりとした光芒、その情景がしばらく続きタイトルが浮かび上がる。
この静けさと儚さ、物語が始まるという装いは美しく見とれてしまう。
ただしそこからどこに連れていかれるのかと思ってしまうほどゆったりとした進行から変質的な物語が幕を開ける。
まず謎のでんぐり返しに始まり、ジャックの行動がいちいち奇行に映る。
フランス独自の観念なのか、出てくる登場人物の浮ついた振る舞い、何を思考し行動しているのかが理解不能。
物語の本筋は至って簡潔で、1年後に戻ってくる恋人を待つマルトとジャックの恋愛話。なのですが、その本筋すら揺蕩う心情と曖昧な状況が錯綜し、釈然としたものがほとんど見えてこない。
皮肉なものでタイトルは『白夜』、見通しの良い夜のはずなのに思考は混迷を極めるばかり。
それからもジャックの理解し難い行動が目立ち、街中で女性を直視し、街を徘徊する。ぼーっと座っていたかと思えばテープレコーダーに何やら吹き込む。そしてバス内で「マルト、マルト」という録音をおもむろに流し・・・。
これは通常運転なのか。
画家という立場としての会話、振る舞いからくるミステリアスさなのか、ジャックにおける正常がこの時代の正常な行動なのかも読み取れない。
あくまでも詩的な会話や描写が続き、終始掴みどころがない。
それにしても映像における臨場感というのはどこからくるのだろうか。
フランスの街並み、喧騒の無い中にあって都市に反響する音像をつぶさに拾う。
微細な街の音すらもパッケージされた映像というのは見事なところで、まるで世界を共にしているような日常との地続き感には恐れ入った。
そして映像的な側面からも巧みさが垣間見える。
教科書的な部分、クローズとアップの使い方や色や光の切り取り方、細部にわたる気遣いなども印象深く、一枚画のような抒情性が光り、映るもの全てが生々しく映る。
静的で孤独な雰囲気を作り出す一助としての役割もショットに含まれており、とにかく”余白への美意識”というものが感じられ、それこそが本作の核心となる空想の美とシンクロする。
原作小説のラストにある「一生分の幸福に、その一瞬があれば十分ではないか?」という独白がブレッソン作品『白夜』では語られないわけですが、その核心を多分に含ませるショットと会話、行動の積み重ねによる演出。シネマトグラフと呼ばれる独自の手法を確立した監督なわけで、それがこのような映画として完成に至るのかと。
そんなシネマトグラフとは。
1. 「モデル」の起用(俳優ではない)
ブレッソンはプロの俳優を使いません。出演者を「モデル」と呼び、感情を込めて演じることを厳禁しました。無表情・無感動: セリフを棒読みさせ、同じ動作を何度も繰り返させて「演技」を削ぎ落とします。
自動化: 意識的な表現を消し、モデルを「ただそこに存在する物体」のように扱うことで、観客がその奥にある真実を読み取れるようにしました。
2. 断片化と「手」のクローズアップ
全身を映して状況を説明するのではなく、あえて体の一部(特に手や足)を執拗に映します。足音と動作: 例えば、誰かが部屋に入ってくるシーンでも、顔ではなく「歩く足元」と「ドアノブを回す手」だけでその人物の動きや緊張感を語ります。
想像力: 全てを見せないことで、観客の想像力を刺激し、映像の断片を脳内で繋ぎ合わせるように仕向けます。
3. 音響の優位性
「映像で見せられるものは音で語るな、音で語れるものは映像で見せるな」というスタンスです。視覚と聴覚の役割分担: 画面の外で鳴る音(オフの音)を非常に重視しました。馬の姿を見せずに「パカパカ」という蹄の音だけでその存在を確信させるような手法です。
加えて印象的だったのがこの世界に生きる人の生活感なんですよね。
今の日々何かに追われているような生活とは決定的に異なるゆったりとした時間の経過。
この流れの中だからこそ生きる映画であり、その見えない人生の機微のようなものを諭されているような気もしてくる。
この辺は
ジム・ジャームッシュの『ナイト・オン・ザ・プラネット』を想起させるような夜の静寂と街並みにも似通っており、人は夜に孤独と想像を巡らせてしまうものなのか。
とにかく、映像に溢れる甘美性と柔和な抒情性、計り知れない懐の深さに溺れる体験もいいのかもしれない。
最後にジャックが録音した音声。
"Merci de ton amour. Et sois bénie pour le bonheur que tu m'apportes."
「君の愛に感謝する。そして、君が僕に与えてくれた幸せに祝福あれ。」
一瞬の幸福と今を生きる自発的な存在としての証明。
今この瞬間の唯一無二性というのを原作通りの帰結と共に、孤独すらもまた一興ということを添えて。
では。



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