『この人の閾』
この人の閾(著:保坂和志)は、表題作を含む複数の短編で構成された作品集で、語り手「ぼく」と周囲の人々との何気ない日常を通して、人と人の距離や存在の感覚を描いた文学作品です。
物語では、昔の知人の家を訪ねて半日を過ごす出来事や、友人との会話、犬と過ごす時間など、ごく平凡な日常の場面が中心に描かれます。大きな事件や劇的な展開はほとんどありませんが、語り手の観察や思索を通して、他人の生活に触れるときの微妙な距離感や、言葉では捉えきれない人の存在の気配が浮かび上がっていきます。
タイトルの「閾(しきい)」は、人と人とのあいだにある見えない境界や距離を象徴しており、日常のささやかな出来事の中からその“境目”を見つめることが、この作品集全体のテーマとなっています。
著者の作品を読むと毎回思うことがある。
思うというか、手触りというか、”形にするのが難しい、でも確実に日常に存在する何か”があると感じている。
感覚的なようでそうとも言えないような曖昧で抽象的な事柄。
本著には短編4種が収録されているわけですが、そのどれもが会話劇を中心とした何気ない日常の一コマを取り扱っている。
普段使われることの無い”閾”というタイトルに含まれる言葉も興味深く、意味を薄っすらとは把握していても、使用することはほぼ無い。
私が認識しているところでいうと、「閾値」という単語であって、何かしら設定の際に出てくるので知っている程度。
調べてみると
① 物理的な意味(本来の意味)
家の出入口の下にある横木・段差のこと。
例:
「玄関の閾をまたぐ」
「敷居(しきい)」とほぼ同義
→ 内と外を分ける“境目”の役割を持つもの。
② 抽象的・比喩的な意味(現代でよく使われる)
ある状態に入るための境界線・基準点。
例:
「痛みを感じる閾」
「集中力が切れる閾を超える」
「発動の閾値(いきち)」
→
ここを超えると「状態が変わる」
それまでは起きない/感じない
という“切り替わりの境界”を指します。
端的に境界線という意味合いで使用されているように感じるわけですが、誰かとの、何かとの、世界との、存在としての。
そんな境界にまつわる事柄を、淡々と日常風景に折込み、丹念に紡ぎ出していく。
図らずとも各々の日常において、自然発生的にそれらのことは起きているはずなのですが、そこに焦点を当てたり、改めて視点を向けたりしないことにはその線が見えてこない。
しかも明確にその線が引かれているわけでもなく、ぼんやりと感じることあったり、なんなら感じ方すらも個々人によるところが大きいので、どこがそうした境界になっているのかなどということは千差万別であるから余計に理解しがたい。
時間の経過や立場の違いなどから見える景色も変わるわけで、見え方自体が有機的に変化していく。
言葉にならないものや見えないもの、それらが空白なわけではなく、粒子のような目に見えない細かなもので満ちていたとして、それをなんとか伝えようとしているような実験性すら感じるわけで、それこそが著者の作品の醍醐味だなと改めて思わされる。
言語化することが出来ず、ビジュアル的に具現化するのがアートであり、音楽であり、それを越えたところにあるものをどう表現するのか。
文字というフィルターを通しつつ、その情景の中にある景色を通し、それぞれの手触りを取り戻させる。
読む人によって、読むタイミングによって、感じることも思うことも変わるかもしれないという前置きをしつつ、暮らしの中に潜んでいる微細な変化に目を向けるきっかけとなるのは間違いないのではないでしょうか。
物語的な起伏や展開、つまるところ”刺激”が求められる昨今において、微細な気付きというのもまた貴重なもので、世界を一変させてくれる可能性を秘めているのかもしれません。
読後のスッとした余韻から後を引く物語のラインナップで、ありふれた日々を言葉の世界で散策するのもゆったりと楽しめるのではないでしょうか。
では。
9十年か十五年たっても
31働くことに思想は
65言葉が届かないということは94ある種のリアリティは
100それでもたとえば124あとの違いはそう言われて
138秋になって感傷的に
153だいたい言葉だけの
