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なぜ“顔”はここまで人を縛るのか──50年後も刺さる『他人の顔』

『他人の顔』

液体空気の爆発で受けた顔一面の蛭のようなケロイド瘢痕によって自分の顔を喪失してしまった男……失われた妻の愛をとりもどすために“他人の顔"をプラスチック製の仮面に仕立てて、妻を誘惑する男の自己回復のあがき……。

特異な着想の中に執拗なまでに精緻な科学的記載をも交えて、“顔"というものに関わって生きている人間という存在の不安定さ、あいまいさを描く長編。解説:大江健三郎。

顔、人間における表層上の最たるものであり、それ無しに語ることが出来ないとすら思える概念であり呪縛とも言える。

時折思うことがあり、人が顔というものにどれだけ縛られ、どれだけ影響されているのか。

ルッキズムなどと言葉を付けて言ってしまえばそれまでだし、そうした並列的に捉える差別的な価値観を避難することも容易に思う。

一方で本当に人間を見る際、”顔”というものをないがしろにした状態で認識することなど可能なのだろうか。

人間に限らずモノであっても同じことで、結局表面上の何かしらを拠り所に、無意識的に選んだり、選ばれたりというのを避けることができ得るのだろうか。

安部公房が本著を書いたのが昭和43年。50年以上の時を経ても変わらないテーマだと改めて痛感する。

昨今では整形や美容医療の進歩なども相まってか、オリジナル、非オリジナルという観点における見方も加わり、そこにAiというさらにややこしいものすらも登場する始末。

本作では他人の顔というタイトルのもと、顔面に怪我を負い、仮面という形での別人格ともいえる存在を媒介に、その両者で揺れ動く心情。周囲との関わりの中で炙り出しされていく感情の変化。仮面というのもまた旧来から使用され、同様の効果や期待の中から生まれてきたものであるというのは納得のいくところでもある。

仮面を付けることで匿名的に、大胆になれるというのは素顔でないからそうできるということの裏返しであり、それはSNS時代の匿名性ともリンクする。

劇的に何かが変わるわけでは無いのに、一つの障壁を挟むことでなぜこんなにも性格や内部から変化が生じてしまうのか。

同じ人であって全くの別人。

人の人格や存在論を刺激するように、個が個であるということの確かさはどこにあるのか。

とりわけ異性間におけるその要素は大きいところであって、人を好きになったり、好意を寄せるという時、その辺を完全に切り離して考えられる人など皆無だろう。

作品での主人公には妻がおり、その妻との関係性、同僚や社会での人との関わりにおける中での人間関係において、それすらも顔一つで変わってしまう。

でも、本当に変わってしまったのか。

当事者の被害者的錯視であるの可能性もあり、実のところわからない。それでも絶対的に変化してしまったと感じるところは絶対にあるはずで、だからこそ不確実性が色濃くなる。

手記という形でノートに記録し、その過程を読みながら、彼の心境の変化や行動、周囲の目などというものを透して顔の存在を認知する。

結局は主観的というよりも客観性が意識されるのが顔というものであり表層上の本質。

常に主観的な視点が終盤での妻の視点になる時にどういう印象を受けるのか、劇中映画の内容を読む時にどういう思いに至るのか。

顔そのものは真実であるのに、その存在は曖昧で抽象的に映る、とすると主観もまた抽象的なものであり、語られるこの小説自体もまた虚構かもしれない。

そう考えると妻の視点、劇中映画の内容、これらもまたある種の見方であって虚構かもしれない。

ラストでの書くという行為にまつわる一文をを読んだ時、顔の所在、真実の所在などというものは幻想なのかもしれないという思いに至り、それでもそれに左右される人間というもののサガにやるせなさを覚えずにいられない自分がいた気もしている。

惑い惑わされ、曖昧に歪む自己認識の矛盾。

だからこそ哲学や宗教といった無形で解釈の余地がある余白を欲するのかもしれない。

では。

仮面の解釈学

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