『マグノリア』

死の床で息絶えんとするテレビの大物プロデューサー、彼が昔捨てた息子、プロデューサーの若い妻、看護人、癌を宣告されたテレビのクイズ番組の司会者、彼を憎む娘、彼女に一目惚れする警官、番組でおなじみの天才少年、かつての天才少年……。
ロサンゼルス、マグノリア・ストリート周辺に住む、一見何の繋がりもない12人が、不思議な糸に操られて大きな一つの物語に結び付けられていく。
そして……“それ”は、起こる!
ポール・トーマス・アンダーソン監督(以下PTS)の長編にしてある種の到達点とも言える群像劇。
1999年に製作され、187分という3時間越えの本作は当時の私には長く感じた。
その後、PTS作品が公開されるタイミングで何度か観返していたわけですが、徐々に感覚が変わっていくという。
群像劇であり、人間にフォーカスしたような、むしろそれだけとも言える物語の如実性。
それでいて全然集中力が切れず、なんなら前のめりで観てしまうというところに映画上手男ことPTSの手腕が光る。映画としての強度が高いのでしょう。
まずタイトルにもなっているマグノリアについて。
マグノリア:
- 植物としての意味
- モクレン科の常緑または落葉高木の総称。
- 日本語では一般的に「モクレン」や「タイサンボク」などを指す。
- 白や淡いピンクの大きな花を咲かせ、甘い香りが特徴。
- 象徴的な意味
- 花言葉:気高さ、威厳、崇高な美、自然への愛など。
- 西洋では「純潔」「忍耐」「壮麗さ」の象徴とされることも多い。
監督自身はインタビューで「タイトルはただ美しい響きだから選んだ」と語っていますが、フィーリングと潜在的思考は意外にもリンクするもの。
「気高さ」「愛」「崇高な美」というところは作品自体の内容とも強くシンクロする印象を感じてしまう。
本作の面白さというのはいくつかあると思うのですが、導入として、映像の美しさ、繋ぎの巧み、画として見られる流麗さというのが突出している。
画面内に起きること、そこで流れる音楽やカメラワーク、語られている事柄しても構図にしても。
とにかく映像として見られるそれら自体が極上の体験となっており、傾向耽美なルックに痺れる。
音楽との親和性も高く、エイミー・マンの楽曲が印象深い。
オープニングで流れる「One」のカバーからして素晴らしい楽曲と映像の重なりだなと思わされるところですし、他の楽曲も映像との共鳴に圧倒される。
これは是非一聴いただきたい。
正直、相当な人数の浅くない群像劇が繰り広げられることもあり、初見で諸々を理解しるのは極めて難しいところではあると思うのですが、映像の重層感でもって画的に観れてしまう魅力があり、ある種の不思議な寓話的世界観に引き込まれる。
この点は大きいでしょうね。
一人の人生にしろそれぞれの重層性があり、その集積として、他者との重なりが乗じられる。
構造の複雑さを表現したような、映像としての多重構造性が映像として示されることにより、幸福な瞬間を付与してくれるという。
そしてその群像劇を繰り広げる役者陣の素晴らしさ。
脚本ベースの会話が主となるのは勿論のこと、それに肉付けされる強固な演技力、存在感。
ざっとでこれだけの役者陣が。
アール・パートリッジ(ジェイソン・ロバーズ)…余命わずかなTVプロデューサー
フィル・パーマー(フィリップ・シーモア・ホフマン)…彼の世話をする看護師
リンダ・パートリッジ(ジュリアン・ムーア)…アールの妻
フランク・T・J・マッキー(トム・クルーズ)…アールの息子で自己啓発セミナーのカリスマ
ジミー・ゲイター(フィリップ・ベイカー・ホール)…TVクイズ番組の司会者、病を抱えている
ローズ・ゲイター(メローラ・ウォルターズ)…ジミーの疎遠な娘
クローディア・ウィルソン・ゲイター(メローラ・ウォルターズ)…ジミーの娘でドラッグ中毒者
ジム・カリング刑事(ジョン・C・ライリー)…クローディアと関わる警官
スタンリー・スペクター(ジェレミー・ブラックマン)…クイズ番組に出場する天才少年
ドニー・スミス(ウィリアム・H・メイシー)…かつてクイズ番組で有名だった元天才少年
とにかく、全員良いんですよ。
それぞれの個性が立っているし、バックボーンが見えるというか、人となりの表現が染み入るというか。緻密に練られた脚本が演者により強度を増す。
メタファーの構造もさすがという所があり、とくに天気の表現は終盤でもとんでも無い形で生きてくる。
それぞれの感情や内情を表し、かつ舞台装置としても機能する。
要するに”偶然が連続して起こり、それが必然ともいえる形で起こる”ということ。
天気自体、コントロールできず、つまりは偶然。にも関わらず、人は天気予報等の知るすべを用い、ある種の必然性を得ようとする行為を試みる。
偶然性に法則を見出し、必然的なコントローラブルな支配に置きたがるということですよね。
ですが現実は想定より奇なり。
頂点極まれりのラスト「カエルの雨」というのは旧約聖書のエピソードを連想させる奇跡的な演出として起こる。
と同時に、そのシーンで気付かされるのが、空は全世界繋がっており、群像劇に登場する人物たちの世界もまた繋がっているということ。
つまりは個々人としては歯車の形で世界が廻っているが、全体で見るとそれが合わさり必然に近い形で一つの形に集約していく。
人生に置き換えると、結局人はそれぞれの人生を歩むわけですが、結局死地において思う所、感じることは似通ったものであり、それはどんな道を辿っても同様になり得る。
そう考えると作中でアールが「どんなに好き勝手生きても結局人は死ぬ」的なことを言っていた気がするのですが、これも言い得て妙。
どうしたって後悔の無い生き方など存在しないのかもしれない。
偶然をどれだけ重ね、必然に近づけようとも、それはまやかしであり希望であり、叶うことはあり得ない。
不可逆性感じさせるようなセリフもそうで「我々は過去を乗り越えたかもしれないが、過去は我々を乗り越えていない」というのもまた重要なファクターかと。
”偶然から必然”、”人生の不可逆性”、物事を言語により理解しようとしたとて、それはその程度の範疇にしか成り得ない。
カエルの雨を見た時、結局はあらゆるものを超越し、”どんなことでも起きうる”という世界の不可思議、不条理さを抱かずにはいられないよなと。
映画における映像のルック、メタファーによる人生の示唆。
尊さを持って儚いと知る、PTSだからこそ撮れる映像の素晴らしさというのは新作公開と共に、改めて再確認したところでもありましたので。
こうした稀代の監督をリアルタイムで堪能できるのもまた偶然。
では。

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