『砂の女』
昆虫採集で砂丘を訪れた教師の「男」が、集落に伝わる風習によって砂穴の底にある家に閉じ込められる。その家には一人の「女」が住んでおり、男は女とともに、絶えず流れ込む砂を掻き出し続ける奇妙な共同生活を強いられる。
荒唐無稽にして、あり得なくもない。寓話のような話にも見える独特な世界観の構築が素晴らしく、心に残る。
砂というモチーフと重ねられる人間の根源的な問いの輪唱。
主人公である男は学校の教師をしており、特段仕事にやり甲斐も感じず、プライベートでも昆虫の標本を勤しむような人柄であって、それも自分が生きてきた功績、足跡を残したいというような意義に寄る趣味としてそれがある、というような男の話。
そんな男がある仮定の下おとずれた砂地にて軟禁状態に遭うのですが、それだけのプロットにして十二分に楽しませてくれる物語性がある。
冒頭にある、「罰が無ければ、逃げる楽しみもない」という文言。
読み始めこそ不可思議に思うわけですが、最後には俄にその意味合いを色濃くし、ぼんやりと頭の片隅で漂うことになる。結局人生というのもまた同様のことなのかもしれないと。
この話では砂底での生活が全てという女と生活を共にし、それ以上でも以下でもない、生きているというよりは生かされているような奴隷じみた生活が全て、という主にこの女性と主人公の二人を中心に話が進む。
そうした生活の中で甘んじて、むしろ生きたいという意思を持って毎日砂掻きだけをして生活をするというのがどういった意味を持つのだろうか。
序盤こそ、男同様、「こんな生活に何の意味もないし生きている価値も無い」と思ってしまう自分が存在している。
ただ、不思議なもので、読んでいく中で見えてくる微細な変化や、その中での反復により「それでも良いのかもしれない」という思いも少々ながら芽生えてくる。
人の行動の8割は無意識に日常の繰り返しで動いているというのを何かで読んだことがある気がするのですが、無意識下でのルーティンというのは決して悪ではなく、それ以外の2割を充足させるためにはそれが必要だということもまた事実ということらしい。
実際、脳が全ての能力を発揮していないというのも同様で、人間の能力値として一定の縛りや限定というのは必要不可欠なのかもしれない。
形態を変え、一箇所に留まらない砂というものの流動性や連続性とある種の対比を見せる人間の一過性、反復性というもの。
時間軸で捉えると、流れ、永続して継続するという概念は同じながらその形態にフォーカスすると異なって見えてくる。
人は変化し、継続はするが、”反復”という事柄によって、継続が断続的に繰り返されるのではないかと。
女性と男性の人生観の違いも感じ取れ、この話に出てくる砂底の女は人生=家であるとする、身の回り数十メートル内の安泰や安定に固執する。
一方の男はその外、広い世界にこそ価値があり、可能性があると見出す。
根本的な考え方の違いが考えてみれば納得のいくところであり、性差の違いによる認識の相違が炙り出されてくるというのもまた面白い。
そして、その男が終盤に溜水装置に希望を見出すというのも腑に落ちるところであり、外の世界というのはあくまでも物理的な外でなくとも、概念的なアウトフレームにも見出すことが出来、ひいては人生における通常ラインから逸脱した希望というものでも生の意義を見出すことが出来るということ。
反復の怠惰は一方的にくだらないものではないし、希望も意義の見出し方によって生の活力を伴った営みに昇華される。
そのように考えると人生における究極的な目的”幸せ”というものもまた思っているような形をしていないのかもしれないなと思う側面に至る。
昭和よりも平成、平成よりも令和、時代が経てば立つほど科学技術も進歩し、生活水準の平均的な底上げというのは絶対的に増してきているはず。
であるにも関わらず旧来の人々と比較して現代の人々の方が幸せかと言われると全くその限りではなく、純粋に比較することは困難を極める。
その時々、それぞれの立場において、個々の幸せというのは無数にあるわけで、どのような環境においても全くの幸せが存在しないという人間もまたいないはずであるという視点を持てば、それこそ”今”という時に焦点を当てる以外、方法はないのかもしれない。
では。
19太陽が、砥いだ針の先
37形態を持たないということこそ
52水の不思議を、痛切に
64この発見は、はためく
177労働を越える道は
223死にぎわに、個性なんぞが
226夢も、絶望も、恥も、
235同じ図形の反復は
236孤独とは、幻を
