『箱男』

全国各地には、かなりの数の箱男が身をひそめている。
どうやら世間は箱男について、口をつぐんだままにしておくつもりらしい――。ダンボール箱を頭からすっぽりとかぶり、都市を彷徨する箱男は、覗き窓から何を見つめるのだろう。一切の帰属を捨て去り、存在証明を放棄することで彼が求め、そして得たものは? 贋箱男との錯綜した関係、看護婦との絶望的な愛。輝かしいイメージの連鎖と目まぐるしく転換する場面(シーン)。
読者を幻惑する幾つものトリックを仕掛けながら記述されてゆく、実験的精神溢れる書下ろし長編。
以前読んだのはいつだったか。
その時はそこまでピンときていなかったわけですが、今にして読むと深みがあるというか、安部公房とピントが合ってきたというのか。
”覗くということを通して見える風景”、小説の構造の不可思議さもあり、テーマとして、複雑さが重層的に構築される。
この設定からして奇妙で風変わりなところも面白く、箱男て。
箱を被って生活するということを発端にして、それが何のために行われ、はたまた何を思うのか。
いっとき、コロナ禍にあって、マスクをしているのが常となった時期を思い出させる部分もあり、「マスクをしていると楽」であるとか「マスクをしていると落ち着く」といったような声を聞くことが増えた時期もあった。
今にして思えば箱男を矮小化した世界線のようにも見え、必要にかられてやっていたとはいえ、同様の世界観が垣間見える。
人の本質として、”自分”という個の存在を認めてほしいと思う傍ら、”自分を消しさりたい”という両極端な願望を内包しているところもある。
お洒落をしたり、美容に気を使ったり、言葉遣いに気をつけていたり、行動を抑制したり。
対外的に誇示する部分と、それゆえに反目的にもう見られたくない、疲れたとする感情の共存。
であるがゆえにプライベートな空間においては真っ更な個が表出してくる。
この垣根が無くなれば問題は無くなるのかと言うとそんなことは当然無く、というかむしろそれ自体が不可能な生き物であるからこその狭間で葛藤が生じる。
となると個でありたいのか、集団に属したいのか。
おそらく両者共にバランス良くということなのでしょう。でも、そんな個が無くなってしまうかのような快感と方法を得られたとしたら・・・。
そのような実験的な問いが本作にはあると思っていて、人であり、個人であり、自分である、ということは一体何なのか。
恋愛や人間関係においてはそれにプラスして他者の存在というものが入るということで、その核心にも迫っていく。
この小説の面白いところが、”覗く”、”覗かれる”という視点が箱というものを媒介にし、移り変わる奇妙さにある。
言い換えれば、見る、見られるということであって、その立場によって感覚や気持ちが一変したり、嫌悪感を抱いたりもする。
ただ、立場が変わっただけであって、関係性が変わらないにもかかわらず、そうしたことが起きてしまうというのも兎角おかしな話であって、でも、確実に誰しもの中に起きてしまうという必然性を要する。
結局のところ、感情というものが存在している以上、五感から得られる情報を捨て去ることは出来得ない。
重要なのは主体的にそれらを発動させるか否か。
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。どれも”される側”として認知するのはどうやら嫌なようで(事によっては良い場合もあるが)、”する側”、つまりは主体になれるのであれば状況は変わってくるということなのかもしれない。
同時に、箱男のように、自分のテリトリーを守った状態で誰かのそうしたゾーンに入るというのも大抵の人にとっては好ましい状況であって、結局は自分から感覚に接近したいのだろうなと。
ただし箱男が箱の外側を覗き見たような感覚とは別に、箱の内側に記した落書きのような、内から中を伺う視点。これもまた存在する視点であり、何ならそれの方がメインなのかもしれないと思うと、結局また振り出しに戻る。
終盤にある「ある種の落書きは余白である」という箇所。これがまさにその本質的な何かであり、自己の中で迷走することと外側に好奇心を求めることはシームレスに繋がっている。
自己の中に全てがあり、自己の外に全てがある。
曖昧にしてカオス。
垣根として設定された箱の存在は一見すると壁のように感じられるが、実際に隔てているものは無く、感覚によって隔てられていると感じる認知こそがそこにあるだけなのかもしれない。
昭和56年に書かれたとは到底思えないような重層的で現代にも通じる鋭利な視点。
小説だけでなく、昨年には映画化もされているのでそれも是非見てみようかと。
改めまして『箱男』。
では。

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