『ワン・バトル・アフター・アナザー』

ベルリン、カンヌ、ベネチアの3大映画祭で受賞歴を誇るポール・トーマス・アンダーソンが、レオナルド・ディカプリオを主演に迎えて手がけた監督作。トマス・ピンチョンの小説「ヴァインランド」からインスピレーションを得た物語で、冴えない元革命家の男が、何者かにひとり娘を狙われたことから次々と現れる刺客たちとの戦いを強いられ、逃げる者と追う者が入り乱れる追走劇を展開する。
かつては世を騒がせた革命家だったが、いまは平凡で冴えない日々を過ごすボブ。そんな彼の大切なひとり娘ウィラが、とある理由から命を狙われることとなってしまう。娘を守るため、次から次へと現れる刺客たちとの戦いに身を投じるボブだが、無慈悲な軍人のロックジョーが異常な執着心でウィラを狙い、父娘を追い詰めていく。
逃げ続ける中で革命家時代の闘争心を次第によみがえらせていくボブを、レオナルド・ディカプリオが演じ、ボブの宿敵であり、娘ウィラに執拗な執着をみせる軍人ロックジョーをショーン・ペンが怪演。ボブのピンチに現れる空手道場の謎のセンセイ(先生)をベニチオ・デル・トロ、ボブの革命家仲間をレジーナ・ホール、妻でカリスマ革命家をテヤナ・テイラーが演じ、新進俳優チェイス・インフィニティが娘ウィラ役を務める。
ポール・トーマス・アンダーソン(以下PTA)作品には合う、合わないというものが存在するというのが個人的な監督史観である。
ですが、”映画を映画然として撮る”ということに関しては一目置いている監督であるというのもまた間違いないわけでして。
そんな監督の新作公開。
本作は予告の時点、むしろ前情報の時点で非常に楽しみにしていた一作。
革命、逃亡、カーチェイス、ピンチョン、家族愛。
小出しになっているキーワードからして好きなものばかり。そんな期待を上回るような、全く期待を裏切らない一作。
まずもってお知らせしたいのが、162分と長い作品ながら、その長さを感じさせないということ。
PTA作品は長いというイメージもありますし、昨今の映画自体、長尺が多いわけですが、本作に関しては本当に長さを感じさせない。
冗談抜きに、なんでこんなに体感がすぐなのかがわからないほど、あっという間に終わってしまう。
単純にPTAによる映画というものの上手さでしょう。
ひとまず前提として、トマス・ピンチョン作品の『ヴァイン・ランド』とどういう関係なのか。
項目 関係・関与の度合い 原作ではない 映画は『ヴァインランド』をそのまま原作として適応したものではない。「インスパイア元(inspired by)」としての関係。 テーマ的・構造的引用が強い 父と娘、革命/反体制、理想と挫折、監視国家などのモチーフが『ヴァインランド』的構造を継承。 キャラクターやプロットは改変が多い 名前・背景・時代設定・政治状況などが大きく置き換えられ、映画側で再構築されている。 監督の発言:部分的に“盗むように使用” PTAは「ヴァインランドの中で響いた部分だけを“盗む”ように使った」と発言しており、忠実な翻案ではない。 映画としての独自性重視 現代的な社会・政治問題を舞台に、1980〜60年代構造を現代に更新している。
端的に言えば、
映画『ワン・バトル・アフター・アナザー』はヴァインランドを原作としてはいないが、テーマや構造を強く参考にしたリミックス的作品であり、映画として独自に完結している。
ピンチョン要素も程よくで良いんですよね。
そんな本作の映像表現から。
映像を撮る、画を動かすということにおいてどのシーンでも徹底的に考えられており(いや、才能かもしれませんが)、常に心地良く画面に魅了されてしまう。
この感覚は非常に重要なファクターで、動的、静的問わず、画のルック、配置、全てにおいて自然に意識が向かうような演出が成されている。
特に驚かされたのはディカプリオが屋根裏を逃亡していく横スクロールからの縦落ち。その後の展開は「えっ」と思わされましたし、一瞬の出来事にして驚愕の一幕。
「この状況でその展開になるのか」と誰もが思うところでしょうし、高まってきた逃亡への意識がそこで分断されるという。
そしてあのカーチェイスですよね。
画のルックを最大限活かした、奥行きと上下の演出。
何が起きているのか、理解出来るけど、どういうことが起きているのか少し戸惑ってしまうという構図。
滑らかな画作りとソリッドなエンジン音、距離感や高低差が瞬時に飲み込めなくなる摩訶不思議映像。
そこからの展開もそれはそれは。構図を使用したからこその仕上がりとなっており、変な緊張感と高揚感が止まらない。
ちなみに画作りはビスタビジョンというものを採用しており、最近ではあまり使用されていないフィルム方式となっている。
昨年公開の『ブルータリスト』では使用されていたようですが。
◆VistaVisionとは
1950年代に生まれた横長35mmフィルム方式。
通常の35mmよりも広い画面領域を使うため、解像度が高く、階調や質感が豊かになるのが特徴。
当時は一部の大作でしか使われなかったが、現在では極めて希少な撮影方式。
アナログならではの深みのある映像美を得られることから、PTAが『One Battle After Another』で再び採用した。
加えて笑えるブラックジョークめいたところが多いというのも特徴的。
ディカプリオは全盛期こそイケメン、プリンス的な役柄が多かったものの、近年ではダメ親父的な役柄も多く、そこにキュートな魅力と相まった良さが滲み出る。
本人自体も癖のある役柄や作品に出たいと思っていた、という経緯も以前からあったようで、役柄の幅も年々広がり、深みが出てきたのは素晴らしいことではないでしょうか。
実際PTAとの関係においても以下のような事実があったらしい。
実は過去に、『Boogie Nights(ブギーナイツ)』という映画で、ディカプリオとPTAが組む可能性があったという話があります。しかし、タイタニックという作品と重なったため、結局その時は実現しなかった、というインタビューが残っています。
そして演者も全員癖有りで愛らしく魅力的。
ディカプリオ演じるボブはダメ親父で結局何も出来ないし、頼りにもならない。ショーン・ペン演じるロック・ジョーは白人至上主義かつ自己中で変態、そして狂気的で恐ろしい。ベニチオ・デル・トロ演じるセンセイはインチキ臭いが意外に頼りになり、飄々とした様子がまさにデル・トロといった感じ。レジーナ・ホール演じるデアンドラは緩衝材として良き存在となり、テヤナ・テイラー演じるペルフィディアは逞しさ、勇ましさ、革命を率いる女性としての強さが全面に出たTHE革命家。チェイス・インフィニティ演じるウィラは大作初出演ながら抜群の存在感と意思の強さを感じさせる母の面影をしっかりと感じるしっかりもの。
とにかく癖有りで、難有りも多い中、それが要所でスパイスとして効いてくるところもポイントかと。
会話やアクション、やり取りがいちいち気になるし、変な緊張感も混在する。それでいてコミカルなバランスが何とも言えず、何を観させられているのやら。
ちなみにキャラクター設定や政治的な観点でのちょっとした引っ掛かりについてはこの際置いておきます。話が長くなるのと、それほど本作自体にPTAの政治的な意図を感じなかったので。あくまでも映画というフォームに関してのお話をしたいなと思いまして。
とはいえ正直なところ、革命という過激で政治的な要素を多分に孕んだファクターを中心にし、さらわれた娘を助けに行く物語として、その導線やカタルシスといったものは皆無に近い、という面白い構図となっている。
要するに何を観させられているのかわからないのについ夢中になってしまうという魔力があるということ。
複雑なやりとりをするわけでも、ド派手なアクションがあるわけでも、策略があるわけでも、感動があるわけでもない。あくまでも大きな意味での。
ただ娘を奪還に行くのに、何も出来ず、グダグダで終了というストーリーを162分間飽きずに観れてしまう。
でも、そういう映画好きなんです。
そして革命というもの以上に、革命という心意気に惹かれてしまうんですよね。
中盤でアバンティーQという殺し屋のキャラクターが出てくるのですが、そのキャラが何故かウィラを助けるシーンが登場する。
その点だけが鑑賞後も腑に落ちず、考えていたのですが、よくよく考えればあの行為は革命そのものでは無いかと。
自己革命。
そもそもこのお話、革命に始まり、ほぼ全てのキャラクターが”自己防衛”と”自己犠牲”の双方で満ちている。
ですが、ウィラはそもそも自己防衛を持たず、ボブは娘がさらわれたことで自己防衛を捨てる。
つまり、この二人は自己犠牲のみになるんですよ。
自己防衛と自己犠牲の振り子構造こそが人間の本質であり、破滅の予兆でもある。自己の中で起こる変革を革命と置き換えた時、人間性の極致に至る。
そのように考えるとアバンティーQはそれまでの傍観者っぽいような何を考えているのかわからないスタンスも整合性が取れ、結局ロボットのように生きてきた思考停止状態からふと目覚めたのかなと。
説明的な要素は全く無く、あの行動を取るというのがずっと腑に落ちなかった。
ですが、先の自己防衛と自己犠牲の振り子構造から、その中間に位置したのが彼なのではと。
撮り方からも少々くみ取れる部分もあるなと思っていて、引きの構図や音の間の取り方からして理解した時、そうした余白や間をどのように解釈するか。
脳内で構築した時にうっすらと見えてきたのがそのようなことだったので、個人的見解はそこで氷解したなと。
その他の部分で言うと、まず衣装。
手がけたのは名匠コリーン・アトウッド。
イメージとしてファンタジーものの衣装を手掛けることが多いイメージなので、このある意味ファンタージではあるものの、現実のヤサグレ感を出せたのはさすが名匠ならでは。
PTA作品らしく衣装は単なる服ではなく、キャラクターの人生そのものを語るレイヤーとして機能しているというのも見所のひとつ。
兎角、格好良く無いのに格好良く見える。これまた最高。

ディカプリオ演じるボブが着る古びたチェックのローブは、消費された時間と敗北の匂いを纏いながら、同時に彼の反骨と諦念を象徴する。
新品の輝きではなく、風合いと経年の美学を宿した服を選ぶセンスは、まさにPTA流のリアリズム。
アドウッドいわく
「安くて古びた父親のローブ」をイメージし、風合いを出すために 生地をかなり経年加工(エイジング処理) したと語っている。
ファッション的にも、ヴィンテージやワーク、スリフトカルチャーを好む人には刺さる生活の中のスタイルが滲む造形で、映画の空気感そのものを服が作っているとも言える。
実際に小物周りはディカプリオ自身もこだわって選んだみたいですし。
それから音楽。
これがまた素晴らしかった。
相変わらずのジョニー・グリーンウッドとのタッグ。
スコア(劇伴)は、脚本段階から構想に関わり、撮影中も映像と併用して調整を重ねながら使われたらしいですね。
映画撮影前に既にサントラが完成していたとの話もあるようで、PTAの並々ならぬ音楽へのこだわりを感じる。
実際どの作品もスコアが素晴らしいわけですが、本作は個人的にとりわけ良いなと。
鍵盤とドラムによるサウンドでベースを構築しているのですが、そのソリッドさとアンビエントさの加減が見事。
なぜだかわからないが映像とのシンクロがメチャクチャ高く、シーンを思い出すと自然と楽曲が流れてくる。
調性よりも音響が重視され、ミニマルで混沌としている。モールス信号のような鳴っている箇所が印象に残る分、鳴らない箇所さえも余計に響く。非常に現代音楽的なサウンドの構築はペンデレツキ、メシアンなどを信仰するグリーンウッドとの親和性も感じました。
劇中で挿入される楽曲もいちいち良いんですよ。
音像も相当こだわっていることが伺えるような。
特にエンディングで流れる『American Girl』Tom Petty & The Heartbreakersはイントロのアルペジオによる疾走感が堪らなく軽快で、歌詞で描かれるアメリカの少女というのがウィラの心情ともシンクロする。
同時にペルフィディアとも重なるのが感慨深く、それまでの混沌を洗い流すようなサウンドテクスチャと絡み合い昇華されるような。
あとスティーリー・ダンの『Dirty Work』も良かった。軽快さと哀愁を感じさせ、舞台設定との相性も良く、緩慢な映像に膨らみがもたらされる。
そしてこの曲。Gil Scott-Heronによる『The rebolution will not be televised』。1970年代初頭のスピーチでありラップであり。
「革命や変革は他人の目に映るものではなく、個人の行動の中でしか成立しない」というメッセージが語られている中でまさになそれ。
ただ何よりもドラムのビートがカッコ良過ぎる。シンプルで印象深いグルーブ。
最後に個人的な見解を少々。
先に書いた通り、本作は何もカタルシスらしいところは無い。それなのに観ていて非常に心地良く、満ち足りた気持ちになるところに、何かしらの個人的な理由がある気がしていた。
革命ってそもそもが時間軸で捉えた時、事前準備はあるにせよ”今”というものにフォーカスした究極形の一つだと思うんですよ。
過去でも無く、未来でも無く、現在、今に執着し、今をどう変革するか。
それが過去を拭い去ったり、未来を変革することに繋がることはあれど、その瞬間に全力でフォーカスするというのは大前提としてある。
その点、ボブは16年前は別にせよ、今はその日暮らしで過去にも怯え、未来も志向していない。
要するに心はどこにも無いわけです。
それが娘の誘拐により一変する。
”今”に執着するしかなくなるんですよ。逆に。
状況が心境を変え、最大火力で今を生きるしかなくなる。そこには過去も未来も存在せず、今自分が動き変わるしか無いと。
何のために、そう”娘”の為に。
それなのに何も出来ないんですよ。
それこそがこの話の肝なのではと思わされるところでもあり、何か出来るから何かをするのではなく、何も出来ないかもしれないが全力で挑む、そういう姿勢そのものに価値があるのかもしれないと。
ボブが得意としていた爆弾に纏わる仕掛けが出てくるわけでも無し、実は~が出来ましたということも無い、カーチェイスシーンでも車の運転が得意なわけでも無い、合言葉も忘れるし、逃げるシーンは捕まるしで全く良いところが無い。
でも自分にはそんなボブが愛らしくも見え、人間味を感じてしまうし自分と重なるところもある。
終盤でペルフィディアからの手紙にあった「裏切りや逃避による後悔、ウィラやボブに対する愛情」に関してはそれこそその時のペルフィディア自身の思い。
革命ということに執着し、今に縋った結果、後悔という現在に縛られることになっている。
でもそれが人生ですよね。
誰しも何かしら抱え、悩み行動し、もがく。
だからといって今何も動き出さなければ何も起こらないというのもまた事実であり、必要に駆られてでもがむしゃらに動き出したボブの姿勢に哀愁を感じるのかもしれない。
そしてラストシーンでのウィラと対峙する場面。あれは泣けました。
倒錯するウィラから「お前は誰だ」と問われ、そこまでの経緯を何も知らないボブは「パパだよ、お前のパパだよ」というシーン。
あれが何だかグッときたんですよ。
ディカプリオの演技力あってこそですが、「そうか、結局経緯や真実なんてものはどうでもよく、その無頓着さ込みで、父親だからこそ助けに来た」そう言える、その事実だけがあればいい。その表情のやり取りと泣きながらボブの胸に飛び込むウィラの姿にメチャクチャ心打たれてしまって。
とにかく良き映画体験でしたね。
パンフレットも久々に購入したのですが中々良い出来でしたよ。
これから何度か観るであろう作品。変わるところも良しとしつつ楽しもうじゃないですか。
では。

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