『ひゃくえむ。』

「チ。 地球の運動について」で知られる漫画家・魚豊の連載デビュー作で、陸上競技の世界で「100メートル」という一瞬の輝きに魅せられた者たちの狂気と情熱を描いたスポーツ漫画「ひゃくえむ。」をアニメーション映画化。
生まれつき足が速く、友達も居場所も当たり前のように手に入れてきたトガシと、つらい現実を忘れるためがむしゃらに走り続けていた転校生の小宮。トガシは小宮に速く走る方法を教え、放課後に2人で練習を重ねていく。打ち込めるものを見つけた小宮は貪欲に記録を追うようになり、いつしか2人は100メートル走を通じてライバルとも親友ともいえる関係となる。数年後、天才ランナーとして名を馳せたトガシは、勝ち続けなければならない恐怖におびえていた。そんな彼の前に、トップランナーのひとりとなった小宮が現れる。
松坂桃李がトガシ、染谷将太が小宮の声をそれぞれ演じ、共演には内山昂輝、津田健次郎、高橋李依、種﨑敦美、悠木碧ら豪華声優陣が集結。2020年の長編第1作「音楽」で国内外から高く評価された岩井澤健治が監督を務め、「機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ」のむとうやすゆきが脚本を担当。
以前から好きだった作品の映像化。
魚豊作品に共通するテーマとして、「なぜ〜なのか」という哲学的問いにも近しい、根源的な問いというものが存在していると思っており、本作でもそれは十分に生かされている。
映像化されてもそうした重要ファクターが欠けていないというところはまずもって好印象であり、世界観としての魚豊ワールドは存分に堪能できる。
そして本作の監督となるのが、「音楽」を撮られた岩井澤健治監督。
blcrackreverse.com岩井澤監督といえばロトスコープがまず浮かぶわけですが、本作では小学生パート以降の箇所で使われ(全編にわたりとというわけではないが)、効果的に感じる箇所も多数あり。
ロトスコープとは、映画やアニメ制作で実写映像をトレースしてアニメーションや特殊効果を作る技法のことです。
もともとは実写フィルムをなぞってキャラクターの動きを自然に描くために使われ、現在は映像編集で背景と人物を切り分けるマスク処理などにも広く使われています。
漫画で読んだ際、陸上という競技にそもそも興味が無かったんですよ。それなのに「興味の無い競技で熱くなり、人生哲学のようなものまで感じられる作品はそうないぞ」と思ったわけでして、映画でもそれが変わらないのは何より。
むしろ良く映像化出来たなと思ったほど。
映像化するのに際し、難しいと思われるのがどこをどうするのか。
核がブレなければ余白は解釈の余地、感じ方の主観である部分が多きいわけで、それはそれで仕方のないところ。
なんせ当初5巻とはいえ、それを106分に凝縮するというのは中々に骨の折れる作業ですし、このような原作における言語強度の高い作品となると、どこにフォーカスするか決めるのは非常に難しかったのではないでしょうか。
一点だけ難点があったというか、気になってしまったこととして、トガシは初めからあんなに物分りの良いキャラクターだったか・・・と。
無愛想で、達観したような高飛車イメージと、それに頼っての人生から転落という名の現実を見せられ・・・という印象が強かっただけに、その点の映画内でのトガシに対し、若干人の良さが過ぎるような。
記憶も確かでは無いので、その辺は今度漫画を読み返した時にでも確認したいところであります。
では先に書いた、「興味のないもので熱くなれればそれで良いのか」と言われると、そう単純なことでもなく、人生訓、語られる話と生き様にこそ、その究極な魂が宿るというこそが肝となる。
一言で言ってしまえば作中でも語られる「ガチになれるか」これに尽きる。
様々な意味合いを含有したこの言葉、言い方こそ現代的で、チープにも取れますが、そこに含まれる教訓は凄まじく重い。
映画で観ると、それぞれのキャラクターのモノローグ的な要素であったり、内面の葛藤、想いといった、より内面的な世界の展開が省略されているわけですが、これは映像化というところにおいては非常に難しく思われるところであり、物語自体のドライブ感を削いでしまう懸念がある。
作者の魚豊さん自身が述べていたのが
「漫画とは違った映画という“時間”」という言い方をしていて、映画アニメ化によって時間の使い方が変わること、それによってキャラクターの「速さ」や「動き」が新しい表現になることを期待している。
ということ。
時間の経過や使い方が変わることで、動きの緩急、鑑賞者に伝わる浸透圧が視覚的導線によって揺らいでくる。
これはある意味仕方のないことで、漫画のようなコマで脳内に映像を起こしていく視点と、映像的にダイレクトに焼き付けられる映像やアニメーションとでは構造自体が似て非なるもの。
深く読み込みたいと思えば漫画や本ということになりますし、体感を伴った経験がしたいと思えば映画やアニメーションがそれに相応しくなる。
そういった意味でのフォーカス、削り出しというのはある程度割り切りがあったのではないかと思いながら、観ておりました。
前置きはそれくらいにして、映画としての本作がどうだったのか。先に書いた違いがあって、それはそれで核の部分は存在していたというのが率直なところ。気持ちを高ぶらせる様々な仕掛けというのはアニメーションならでは。
まずロトスコープが非常に効果的だなと感じたのがレースシーンにおけるそれ。
線画が荒くなり、一見気持ち悪いような身体性にバイブスが刺激される。躍動感を伴い伝わってくる感覚が観ているだけで伝播する。鼓動がリフレインするかのごとく、ブレやヨレの荒削りさが直接的に視覚へ作用し、無意識ながら手に汗握る。
実際、終盤のレースシーンは圧巻で、トレースしたロトスコープでなければあそこまでの試合前後の動きは表現できなかったのではないでしょうか。肉体性を伴うからこその生々しさ。
とはいえロトスコープが不思議な感覚を抱かせるのは岩井澤監督ならではの作り手としてのセンスを伴ってこそ。
効果音的な音の表現も良かった。
質感を伴ううねりのあるディティール。
音を消すからこそ感じ取れる細やかなサウンドエフェクトもあり、それと対比する形での電車や走行音、スターティングブロックを蹴り出す音、呼吸の、雨の、丁寧な気遣いを感じさせ、同時にエモーショナルな部分を刺激してくる。
ちょっとした画面への気遣いも良いアクセントになってましたね。
画面内グラフィックと状況のシンクロ、引きで撮ることで強調される怪我のシーン、奥行きを活かした走行のシーンと横への流れ、躍動感を活かしたワイドな画。屈指の名シーンになるであろう「財津か小宮か」と口元を連続して切り替え、テンポと昂りを誇張させるカットが続く。
挙げればきりが無いくらい、細やかな気遣いが見て取れる。
人間ドラマとしてのディティール、削いだキャラクターの粒立ちにしろ、作品時間を考えればお見事で、それぞれの葛藤や背景、人柄といったものが垣間見える描き方は物語にダイブするのに必要十分な描写が施されている。
同時に各キャラの名言もシンクロする形で効果的に気持ちを高ぶらせ、なぜ100mという距離の中でここまでモチベーションを維持できるのか、それぞれの視点から吹聴無しに伝播してくる。
小宮の言う「僕でも一瞬なら栄光を掴める」というセリフには誰でも一瞬でいい、ほんの一瞬でも栄光を掴める可能性があるならそれでいいじゃないかという、全てを振り切らせる意気込みを感じさせ。
財津の「浅く考えろ、世の中舐めろ。保身に走るな、勝っても攻めろ」や「ちっぽけな細胞の寄せ集め一人、人生なんてくれてやれ」というセリフからは一人の人間が出来ることの至極シンプルなルールのようなものを呼び起こされる。
特に世の中舐めろ・・・というのは逆説的でエッジの効いた財津ならではの一言であって、常に前進する姿勢をポジティブでなく、ニュートラルに描く。
内山昂輝さんの声との相性も財津らしさが存分に発揮されてましたね。
さらに海棠の言う「現実ごときが俺の意志には追いつけない」というのも現実を鋭角な角度から抉り取るような真実の詰まった解釈、そして声優の津田さんの声色が素晴らしい。
そしてトガシの「100mだけ誰よりも速ければ全部解決する」。実際、それでは何も解決しないかもしれないが、目の前の、今、その時の問題は綺麗さっぱり解決するであろうことはより大きな大義を含有し、真摯に伝わる。
何にも本気になれなかった人生の中で、何かに本気になること、憧れていた結晶の形を見出し、まだ何かは出来るかもしれないと奮い立たせてくれるからこそ、この作品が好きなのかもしれないと改めて思う。
映像による躍動感が気持ちをドライブさせるには十分な熱量を持った作品に仕上がっているのは間違いないでしょう。
では。


