『キムズビデオ』

映画ファンの聖地となっていたニューヨークのレンタルビデオ店「キムズビデオ」の膨大なビデオコレクションの数奇な運命を追ったドキュメンタリー。
1987年、韓国系移民のキム・ヨンマンがニューヨークに開業したキムズビデオには、世界中から収集された5万5000本もの貴重な映像作品が取りそろえられ、多くの映画ファンたちが通い詰めていた。しかしビデオレンタルの時代は終焉を迎え、2008年に惜しまれながらも閉店。数年後、キムズビデオの元会員デビッド・レッドモンがコレクションの行方を捜索すると、イタリアのシチリア島にある村サレーミに移設されていたことが判明する。しかも、管理体制はずさんで、貴重なコレクションがホコリだらけの湿った所蔵庫に放置されていた。
レッドモンは助けを求める映画たちの“声”にかきたてられ、唯一無二のコレクションを救い出すことを決意。架空の映画撮影を偽りながら、前代未聞の奪還計画に乗り出す。
カルトという名の文化的普及とミステリー的なる結末の在処。
カルチャーというものがどのようにして発生し、どこを経由し、どこに帰結するのかという一端を見た気にさせる作品。
キムズビデオという存在を知らずとも、映画が好きという一点において、こうした店がかつて存在し、それに呼応する形で集っていた人々がいたという事実がそこにあった。
それ自体が既にワクワクすることであり、こういう熱の渦中にいたいものだと単純に思ってしまうところに、自身の文化に対する興味を鑑みる。
否応なく、深みにハマり、それそのものが楽しいというのはこうしたものが好きで良かったと心から思うところであり、なぜ好きになったのかと考えると、到底その答えは用意されていない。
今ではサブスクなどを通し、好きな時に、どこでも、観ようと思えば見れてしまうというのが実情であり、それは果たして文化的嗜好という観点において考えると果たして良いことなのかと思う部分もある。
何事もそうなのかもしれないが、苦労して、偶然の、そのような中から余計に知りたいと思ったり、余計に気になったりというものが湧き出てくる感情が生じることの必要性。そうした感情の起伏の在り処として、”キムズビデオ”という店舗が生み出されたのはある種必然だったのかもしれない。
学生時代のTSUTAYAにあったコーナーの一角にそうした趣があったのも同様、熱がそこにあったからであって、知らず知らずのうちに文化的坩堝の入口にいたというのは今にして思えば有り難いところであった。
作中で様々な映画の断片が挿入され、同時に状況の変化というものが断片の作品とリンクしていく。
観ている段階においてでさえ、本作を作った監督が如何に映画愛を持っているのかということが伝わるところであり、コラージュ的なその構成は現代に即したような時代性も併せ持つ。
しかも単なるドキュメンタリー作品にならないところとして、物語のミステリアスな展開にも惹き込まれていく。その謎解きと結末、それ自体が映画的な物語の集積に他ならないと思わされる。
バックボーンに潜むスリリングさを身に纏いながら、積み上げられた砂を縫うようにして進む。
映画好きだからこその情念が同居した謎解き。見せ方にも演出が光る。
キムズビデオを追う中で様々な人々が登場してくるのですが、その人物達との関係性やその過程での出来事が省略されているところも多く感じる。
だからこそ唐突に感じる部分や謎めいたところもあり、余計に奇妙なミステリアスさを含むというのは狙いなのか、偶然なのか。
「ツイン・ピークス」のような得体のしれない何かに接近しているようなところもあり、「それってもっと深堀りしないの」と思うようなところがサクッとスルーされたりする面白さもある。
謎解きにおいて、謎は多いほうが良いですし、それが複雑に絡み合い、最終的に関係ないところまで関係性があるように見えるほうがワクワクさせられる。
キムズビデオに関する数多の余白を残したうえで、ハッピーエンド風な帰結に至ることになるわけですが、物語は終わったのかどうか。
終わったと思えばそれもそうですし、果たしてそこまでのエピソードから終わっていないといえば終わっていないような気もしてくる。
いずれにせよ文化というものに関して、誰しもがその感覚を持っているわけでなく、貴重だと思うかどうかということに関してもまた個々人の裏付けが色濃く出るということ。
多くの人にとってはどうでも良いものと思われるものを好きで良かったと逆説的に思えてしまうのは、映画だけに限らず、あらゆるカルチャーが内包するところなのかもしれないなと。
キムズビデオがそうであるように、これからもマイワールドをせっせと構築することに勤しみたい、そう思わせてくれる映画愛溢れるドキュメンタリー?でした。
では。

