『1999展 ―存在しないあの日の記憶―』

夢か虚構か、そう問われた時に浮かぶものは何なのだろうか。
あの頃思っていた”ノストラダムスの大予言”を再びに思う時、浮かび上がるもの、あの時思っていたこと。
当時、小学生〜中学生にあった自分にとって、都市伝説や、怪談といったものは身近で、わくわくさせられるもの、恐怖を抱くもの、表裏一体の感情が混濁した対象として存在していた。
そんな折に、誰しもが耳にしていたあの予言。
あれは何だったんだろう。
この展示の詳細を見た時にまず思ったのがそうした印象だった。
「もし1999年7月、本当に世界が終わっていたら?」という“if”の世界を体験できる、没入型ホラー展となっており、映像・音響・空間演出を駆使した感覚を刺激する。
ifの世界線という興味、五感を刺激するような仕掛け、そして携わる人々(ホラー小説家の背筋、脚本家でありホラーゲーム『SIREN』の脚本を手掛けた佐藤直子、ホラー映画監督・西山将貴)、これらの情報だけでも既にお腹いっぱいというようなところなのですが、カオスな世界観はそれだけで涼しさを運ぶ。
どういったものになっているかというのは体験しなければ始まらないという大前提はあるとして、感覚を総動員して、ただ感じ取ることが重要なのは間違いない。
受け身の姿勢で何かを待つ、というよりも主体的に何を感じ取るのか。
これに尽きる。
そんな中、まるであの時代を彷彿とさせるような品々、ギミックに始まり、エヴァンゲリオンのセカンドインパクト的なる雰囲気、徐々に終末が迫りくる予感を感じさせる演出。
兎角思うのが、終末であったり、個人で言うところの死というものについて、真に考えることは早々無いということである。
否応なく向き合わされた時に、意外にもどのような世代の、どのような人にとっても帰結する先は一緒なのでは無いのかというところであって、そうした凝縮された儚さの極みのような気配が漂う。
どんなに現在に不満や悩み、葛藤があろうとも。どんなに喜び、楽しみ、満足感を得ようとも、全てが無に帰すとしたら?
そのように考えた時、”どんな今であっても今がある”というそれ自体が重要なのではないか。
年々、目的意識を持った、先行きを考えた諸々を従え、前進することに重しを背負った状況に晒されているが、それでもなおその瞬間という今を噛みしめる必要があるのではないのだろうか。
終盤に出てくる、それぞれの終末というものを目にした時、そんなことを考えさせられる。
些細でも、ささやかでも良い、今に意味を見出した時に、逆説的にそのカウンターとしてのホラーであったり、都市伝説のようなたらればが奇しくも輝く理由になるのかもしれない。
では。