『国宝』
李相日監督が「悪人」「怒り」に続いて吉田修一の小説を映画化。任侠の家に生まれながら、歌舞伎役者として芸の道に人生を捧げた男の激動の人生を描いた人間ドラマ。
任侠の一門に生まれた喜久雄は15歳の時に抗争で父を亡くし、天涯孤独となってしまう。喜久雄の天性の才能を見抜いた上方歌舞伎の名門の当主・花井半二郎は彼を引き取り、喜久雄は思いがけず歌舞伎の世界へ飛び込むことに。喜久雄は半二郎の跡取り息子・俊介と兄弟のように育てられ、親友として、ライバルとして互いに高めあい、芸に青春を捧げていく。そんなある日、事故で入院した半二郎が自身の代役に俊介ではなく喜久雄を指名したことから、2人の運命は大きく揺るがされる。
主人公・喜久雄を吉沢亮、喜久雄の生涯のライバルとなる俊介を横浜流星、喜久雄を引き取る歌舞伎役者・半二郎を渡辺謙、半二郎の妻・幸子を寺島しのぶ、喜久雄の恋人・春江を高畑充希が演じた。脚本を「サマー・ウォーズ」の奥寺佐渡子、撮影をカンヌ国際映画祭パルムドール受賞作「アデル、ブルーは熱い色」を手がけたソフィアン・エル・ファニ、美術を「キル・ビル」の種田陽平が担当した。2025年・第78回カンヌ国際映画祭の監督週間部門出品。
映画とは、芸術とは。
歌舞伎というものについて全く見識も無く見に行ったのにも関わらず、圧倒的な映画力に打たれる。
芸を極めるということの本質は。
ひとまず歌舞伎というものについてざっくりと。

さらに国宝を観るうえでの歌舞伎小ネタを。
①【屋号(やごう)】は血と芸を継ぐ“もうひとつの名前”
歌舞伎役者には「〇〇屋!」と呼ばれる屋号があります。これは家の芸風や血筋を表す称号。『国宝』でも屋号や名跡(みょうせき)継承が、人生と芸の核心に関わるテーマ。
②【名跡(みょうせき)】継承は“芸の継承”であり“呪い”でもある
名跡とは、歌舞伎役者が代々襲名する名前(例:市川團十郎、尾上菊五郎など)。
襲名は一族と芸の歴史を背負う行為であり、プレッシャーや妬みを生む。
③【女形(おんながた)】は「女を演じる男」ではなく、「美の極致」
男性が演じる女性役は、ただの模倣ではなく、理想化された「美」を体現する存在。
仕草、視線、呼吸すら様式化され、精神的にも「女になる」修練が求められる。
④【見得(みえ)】とは感情の“静止画”
セリフのクライマックスで、役者が決めるポーズ。観客の視線を集め、心の昂りを「止めて見せる」芸。
⑤【歌舞伎界の“家”は血縁と養子でつながる】
実子がいない場合、弟子や他家の役者を養子に迎えて家名を守るのが伝統。
そこには血のつながり以上に、“芸の継承者”としての厳しい目が注がれる。
⑥【私生活と舞台の境界はあいまい】
歌舞伎役者は、舞台上の役柄が私生活にもにじみ出るほど、人生と芸が一体化しているとされる。→ 愛、友情、嫉妬、執着…すべてが“演じること”と地続き。
⑦【“型”は自由の制限ではなく、芸の骨格】
歌舞伎は「型」が重視される芸能。でもこれは自由を縛るのではなく、その中で“自分の個性”を出すことが本物とされる。
ということを踏まえた上で観ると、一層楽しめるのではないでしょうか。
そんな本作ですが、まずその映像の美しさに圧倒される。
演者によるそれもさることながら、画としての美しさ、固唾を飲むような清廉さ。
音と映像、演技とセリフが一体となり、観るものに塊として、空間として、その存在を誇示してくる。
冒頭の長崎でのくだりなんかもそうですよね。
雪がしんしんと降りしきる夜。
室内での宴会による活気と対比される外の雪景色、そこでの会話劇から対抗組織が侵入してくるくだりまで。
あのシーンにおける歌舞伎風なる芸に引き込まれ、ただそれ以上に父親役である、永瀬正敏さんの演技力に圧倒される。
家を背負う、組を背負うということの業や覚悟、その役目を果たしつつ、殺される間際に放つ「見てろよ」というセリフ。
個人的にこのシーンにおけるそれは果たせなかったのでは無いかと思っていて、本当は襲撃者を殺し、自ら自害しようとしたように見えたんですよ。
それを鉄砲という安易なる武器により侮辱されるように殺されてしまう。
傾きそこなった最後を見ることになった息子の目には複雑な表情がにじみ、覚悟とともに、様々な感情が混濁した思考を巡らせる。
綺麗に舞う雪、親父の死、庭園の風景、ガラス越し、自らの顔、室内の様子、情報過多な画面における混沌さを心の透かしとしてこれからの物語を予兆させるオープニング。
美しくも儚い”美”というものの根源がすでに根ざしている良きシーンでした。
そこから小説原作のような構成で、青春篇と花道篇という形で進むわけですが、とにかく全てが美しい。
伝統と芸というのはかくありきというものをまざまざと見せつけられるような物語。
カメラワークがその一端を担っており、「アデル、ブルーは熱い色」を撮られたソフィアン・エル・ファニさんが撮影されているとのこと。
歌舞伎という日本古来のものに対し、表情や寄りを中心とした画面構成。
静止画的な耽美な構図ということでなく、流動性をもったような緩慢な動きを伴った構図。
流麗な動きとシンクロする画面の展開、寄りによる機微な変化を捉えたカメラワークというのは海外の方の解釈する歌舞伎の要素が存分に発揮されており、それが妙に心地良く、整合している。
シネマスコープサイズになっていた画角というのも実際の歌舞伎を舞台として観ているような没入感を得られる構図とシンクロする部分もあり、入れ子構造な世界の構築に、臨場感の手触りさえ感じてしまう。
そして何よりこの映画の肝というのは演者の演技力と存在感ではないでしょうか。
全員が完璧な役柄をこなし、ニュアンスの表現でさえ抜かり無く。
中でも痺れたのが田中泯さん演じる人間国宝こと万菊、それから吉沢亮演じる喜久雄。
この二人は特に素晴らしかった。
万菊なんて人間国宝にしか見えなかったですし、女形として人生を過ごし、終えていく。
その極み以外、何者にも見えないほどに。
指先や表情、言葉選びや使い方、仕草まで含め、恐ろしいほどに憑依している。
序盤で喜久雄と俊介が万菊の舞台を観ているシーンでの感想そのままに、恐ろしいほど美しいという言葉以外に見つからないほど。
この作品、パンチライン的なるセリフも多いのですが、万菊が言う「綺麗なお顔、でも芸をするのには邪魔も邪魔。顔に喰われる」というのも徐々にそのニュアンスがわかってきますし、「あなた歌舞伎が憎くて仕方ないんでしょう、でもそれでいいの、それでもやるの」という言葉も含蓄を感じずにはいられない核心めいたものを秘めている。
横浜流星演じる俊介にもそれはあり、「ほんもんの役者になりたい」というセリフには全ての内なる想いが込められている衒いがあり、芸に対する想い、血による呪いに対する抗いが感じられる。
そして喜久雄。
序盤の子役を演じていた黒川想矢さんも素晴らしい演技力でしたが、それを引き継いだ吉沢亮の圧倒的な美しさ、演技力。
目に宿る意思と覚悟を垣間見、振る舞いと内面性を漂わせる。
苦悩と葛藤を感じながらも、歌舞伎が好きだという想い、引け目に感じるものがあってもその想いには抗えないサガを内包している。
屋上での舞のシーンなど、和製ジョーカーを彷彿とさせる美と嘆きの極地。
あの映像は目にこびり付いて離れない。それほどに空虚で儚く、”芸”というものについて考えさせられる。
俊介と二人で舞台に立つ「曽根崎心中」もお見事で、あの頃の輝きと綺羅びやかさ、ひと目で圧倒される芸というのは恐ろしいもの。
この曽根崎心中は後半でも出てくるわけで、それ以外にも何度か同じようなシーンが繰り返されるわけですが、それもまた観るものの記憶、変化を示すスイッチ役として時代や立場の移り変わり、年齢の変化のようなものや意識の違いなどもしばしば感じさせる良き演出。
さらにラストでの「鷺娘」は圧巻意外の言葉が出ない美。
「探している景色がある」と語っていた喜久雄の到達点、視聴者としてその一端を共有できるという幸せ。
この映画では血縁と才能、美や芸といったものがテーマの根底にあると思うんですが、彼らの行動、発言を聞いていると、というよりも生き様を見せられると、それはある種近しいようでいて遠いものなのかもしれないと思ってしまう。
つまり、先に挙げたようなものがあるにせよ、結局はどこまで突き詰めて人生を送るのかということ。
まさに文字通り”生き様”。
所作や雰囲気、醸し出すオーラのようなものというのは修練と鍛錬の先にこそ見えるもので、一朝一夕で身につくものではない。
どれだけ突き詰め、向き合い、傷つき、悩み、葛藤し、喜び、励み、それらのどんなことが起きても諦めず、というより諦めきれず、向き合わざるを得なかったのか。
諦められたであろうものを諦めきれないというのはそれが事実であって、努力や惰性で超えられるものではない。
呪いとも言えるような狂気じみた領域にこそそうした光が潜んでいる。
最後に見たかった光というのは自分の核心、何があっても失わず、失えずにいたもの。
ではそれまでの事柄、出会ってきた人物、それらをおざなりにしてきたのかというとそれも違う。
結果としてそうなってしまったかもしれないが、それが本望ではなく、それ以上に歌舞伎というものに魅入られてしまったのではないか。
そう思うと、芸というのは恐ろしく深い、深海のような様相を呈しているのかもしれない。
驚いたのが、映画館の人の入りにも現れていて、話題作とはいえ年齢層も多岐にわたり、学生から老人まで。
芸術や伝統というものに対し、美というものに対し、これほどまでに多くの方が興味を抱いているというのは昨今のタイパ、コスパで片付けられる諸々のカウンターとして、希望も持てるような映画であったのは間違いないでしょう。
このタイミングでこうした長尺の3時間近い作品が賑わうこと、人生に必要のないかもしれないこうした芸術に触れれたことを幸運に思います。
原作も吉田修一さんが書かれているのは興味ありありなのでこちらも読んでみたいところです。
では。
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