『プリンス・オブ・ブロードウェイ』

「ANORA アノーラ」でカンヌ国際映画祭パルムドールおよびアカデミー作品賞を受賞したショーン・ベイカー監督が、2008年に手がけた長編第3作。
ニューヨークの路上でブランド品の偽物を売り、生計を立てる黒人青年ラッキー。ある日、かつての恋人が現れ、彼が存在すら知らなかった“息子”を連れてくる。突然“パパ”になったラッキーと幼い子ども、そんな彼らを取り巻く人間模様をチャーミングに描き出す。
後に「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」の製作総指揮を務めるダーレン・ディーンがベイカー監督と共同で脚本を手がけ、ベイカー監督が撮影も担当。「ANORA アノーラ」にも出演するベイカー監督作の常連俳優カレン・カラグリアンが出演。日本では、2025年7月の特集企画「ショーン・ベイカー 初期傑作選」にて劇場初公開。
ショーン・ベイカー監督作品は未見だったのですがこのタイミングで本作から観れたのは非常に良かった。
夏にして舞台は冬。
季節がチグハグな時期にチグハグな作品を観るというのも乙なわけですが、本作の生々しい空気感、俳優陣がリアルタイムにて会話を繋いでいったというタイム感も相まってか、終始”そこにある”という架空の現実を体験したような手触りのある作品。
作品自体に宿る部分においてもそうで、人々のリアル、その時の、普遍的なもの、そうした人たるもののサガや性格、そうした内面性における手触り感すらも真摯に伝える構成、恐れ入りました。
会話劇やこうしたノンフィクショナルな視点というのはリチャード・リンクレイター監督などもそうですが、ショーン・ベイカーの方が、どちらかというと一層人間的。
辛辣さとシュールさ、人間が持つ独特の絶妙さを表現しているような気がしていて、だからこそ、より自分ごととしてのリアルさが滲み出る。
実体験を持つ人々と共作で映画を制作していくという手法もそうで、ガチガチのストーリをテリングするというより、非線形なストーリーをテリングしていく、高画質なカメラで無くというところもまた現場のリアリティを高め、とにかく全編にドキュメンタリーライクな空気感が漂う。
設定における子育てや仕事、生活といった部分へのフォーカスもそうで、誰しもが経験し体験させられるような葛藤。
経験しないにしても(子育てなど)、これが現実に起きたらと思わせるところ自体は誰にでも起きうるわけで、そのリアリティが半端じゃない引き込みとして機能していく。
主人公、ラッキーというキャラの存在も非常に大きく、馬鹿そうで、クズそう。そう思わせて、実は意外にしっかりしており、真面目で愛嬌のある男性。
これが非常に大きかった。
この人物造形が違うものだったとすれば、全然違う作品になってしまったでしょうし、ここまで楽しくも観れなかったかもしれない。
それくらい彼の存在は大きかった。
周りの人物たちや、関わる人物たちの設定もそうで、全てが程よく狂ったピースであるがために成り立つバランス。
「こういう人いるよな」とか「この感じ最悪だわ」とか、自分事として観れる視点というのはそうそう思えることでも無い。
”誰しもが”というところも肝であって、”誰かは”そう見えるというのもまた違う。
人生の一幕の再現という視点に立ってみるのであれば、ここまで深く入り込んで観れるというのは中々に出会えないのではとすら思ってしまう。
人間関係において見えてくる視点も素晴らしく、ラッキーにおけるボスの、ラッキーにおける友人の、ラッキーにおける妻の、ラッキーにおける彼女の、ラッキーにおける子供の。
それぞれに対し、どれが理想なのか。
不必要なものを見せるのではなく、必要なものをスルッと提示していくような脚本、結局どんな人も人生において、人とのつながりや関係性において悩むところが多いと思う。
それに対する姿勢としてラッキーがある種の模範解答的なものを示してくれるところも興味深い。
結局人は”信頼と信用”において成り立っているのだと。嘘偽りのない、誠実さ、無償の行為として立ち上がる事実こそが美徳になり得る。
どれだけ取り繕おうがそれは偽物の関係性、どれだけぶつかろうが、それは真実。
避けたり、よけたりしようと浮き出てくるのは結局のところ真実の関係性のみ。
ラッキーの姿勢にはその真摯さが現れているし、逆に赤ん坊の存在はその剥き出しのピュアさしか無い。
だからこそ、その核心に迫れるわけだし、心打たれる。
分かる人にはわかるということがあると思うんですが、本当にそうなんですよね。
ラッキーって結局、誰に対しても嘘偽りのない対応をしているんですよ。それが赤ん坊であっても。
最初は怒り狂い、焦り、時には呆然とし、笑い、喜ぶ、けれどもどこまでいっても赤ん坊に対しての愛情というのは感じてしまう。
それは赤ん坊を見れば一目瞭然なわけで、意外にちゃんとしたものを買い与え、食べさせ、面倒を見る。
それらが映像を通してでも伝わってくるし、その関係性というのが説明せずとも伝わってくるんですよ。
終盤でのレストランのシーンですらそう。
一度は投げ出してしまうものの、結局は戻ってきて、気になってしまっている。
これはもうラッキーの気質なんですよ。
決して褒められたことをしているわけではない、けれども、見かけ上のしょうもない大人たちよりもよっぽどしっかりと生きようとしている、これに痺れるわけですよ。
それからボスの存在も赤ん坊同様に大きい。
というかボスの存在がプロットの導き手でもあると思ってい、当時のニューヨークでサバイブすること、赤ん坊を見て父性に目覚めていくところ、何よりラストですよね。
ラストのDNA鑑定の結果のくだり。
ボスの粋なはからい、おそらくは・・・というのが正直なところですが、それはラッキーもわかっていたことなのかもしれない。
でも、重要なのは事実ではなく真実。
自分がまことしやかに信じたものが真実だって良いじゃないですか。
店自体が空っぽになった、でもまた2Fに店をオープンするというボス。
結局のところ、空白になってしまった店というのは何も無くなった心のメタファーであり、それに取り憑かれたのがボスの妻であり、ラッキーの妻。
自我を優先させ、今だけの為に充実しているように見え、実のところは空っぽな心を埋められないだけ。
そしてそれに対する行動として、またオープンするというボスのストイックさは空っぽなものはまた埋めればいいというところでもあり、根っこの充実(いわゆる人間関係)があるならばその空虚さを埋めるのなど造作もないことだという表象。
ラッキーのラストを観ると、その結末も納得の行くもので、彼自身もボス同様、最後は空っぽの中身を真の充実で満たされるはず。
ここからは想像ですが、私には彼らのこの先に苦悩があっても虚無に囚われることは無いのではと思えてならない。
あのくだりは地味に喰らいました。
映像として、当時のニューヨークという舞台の雰囲気も良いんですよね。
冬のニューヨーク。ざらついた質感と、雑多な町並み、そこに流れるリアルカルチャーを感じさせるようなサウンドとの調和も堪能でき、ファッションなどの界隈も垣間見える。
違法、合法、何でもございの当時の空気感というのはまさにな感じであって、純粋な雰囲気として観ていて馴染むというところもあり。
とまあドキュメンタリーチックであるが良くバランスの取れた映画。
なぜタイトルが「プリンス・オブ・ブロードウェイ」かって?
ベイカー監督が生み出すネーミングに、象徴的な名前が多いということを念頭に置いて観ていただければ納得のネーミングであり、主人公がラッキーというのも同様のこと。
サブスクで観られないが素晴らしい映画はたくさんある。
是非この機会に劇場で。
では。