『話の終わり』

書くことをめぐる無二の長編
「翻訳の仕事をしていると、たまに「自分が今までに訳したものの中で一冊だけ自分が書いたことにできるなら何か」と質問されることがある。そんなとき、私はいつだって「『話の終わり』!」と即答してきた。それくらい私にとっては愛着の深い作品だ」(本書「訳者あとがき」より)
語り手の〈私〉は12歳年下の恋人と別れて何年も経ってから、交際していた数か月間の出来事を記憶の中から掘り起こし、かつての恋愛の一部始終を再現しようと試みる。だが記憶はそこここでぼやけ、歪み、欠落し、捏造される。正確に記そうとすればするほど事実は指先からこぼれ落ち、物語に嵌めこまれるのを拒む――
ミランダ・ジュライなど下の世代の作家にもファンの多い「アメリカ文学の静かな巨人」デイヴィスの、代表作との呼び声高い長編が待望の復刊! デイヴィス作品三か月連続刊行第一弾。
リディア・デイヴィスによる唯一の長編作品。
何故か気になり、手に取り、惹き込まれる。
摩訶不思議な並行世界へと誘われる感覚は独特であり新鮮。
読んでいくテンポが心地良く、流れるように読み進める感覚が不可思議。
ストーリーというものがあるとすればそれは精巧で考え抜かれたもの、テーマ性が合ってこそのものだと思うわけですが、本作にはそれと対局にあるような気がする。
このように書くとストーリー性が無いのかと思われるかもしれませんが、むしろその逆、物語は”恋人との記憶”という、あくまでも私的な結論が存在し、回顧録とも言えるようなはっきりとしたものが横たわっている。
それなのになぜだろう、ふわふわとしたような手触りが残る。
主格をいくつも置き、時系列をバラバラにすることで得られていると感じるこの感覚。
意図してやった、というよりも必要だからやったというこの技巧にこそ、その本質が宿るわけですが、彼女の文体そのもの、言葉遣い、語彙というものが相まってなお、そのように感じるのも確か。
実際の恋愛というもの自体がそうですよね。
今にして思えば、起きていることは全て過去であって、その期間にも差異があり、明確に、何が、いつ、どこで、どのように起きたのかなどは朧気なもの。
時系列に記録として書こうとしているならまだしも、記憶として連綿と紡ごうとすればチグハグになるというのは至極当たり前。
脳内で起きるアンバランスな記憶を主体的に辿れるという点に面白さがあるわけで、ぼんやりと輪郭を描き出す作業はさながら自分の記憶を思い出しているかのよう。
文体の独創性というところでいうと、端的で、洗練され、ソリッドさが際立つ。それでいて空気感を纏った文脈の端々にその時の風景が投射され、感覚として訴えかけてくる趣がある。
そこに行ったことがないはずなのに、なぜかいたような気にさせる同調性。まるで記憶の断片から侵入した、世界の一端を味わっているかのような。
文字におけるテンポというもの寄与しており、これには翻訳の岸本佐知子さんによる言葉選びも影響しているのは間違いないのでしょうが、サクサクと読み進められ、どこで読むのを止めても読み出せばすぐにまたあの世界に入り込めてしまう。
思い出にによる表象ゆえの完全でないゆるりとした没入。この曖昧な物語への参画というのは独特な気持ち良さに溢れている。
こうしたチグハグな作りであり、このように没入できる部分として抱いたことがある、それは”小説は曖昧な認識で構わない”というもの。
頭ではわかっていたものの、意外に真に理解していなかった部分であって、どういうことかというと、つまりは日常で起きていることなんて鮮明に記憶していないわけで、それでもおおよその流れ、関係性、事象というのは理解しているわけですよね。
例えば誰かと旅行に行ったということがあっても、計画から旅行の内容、会話、そうした全てを記憶しているわけでなく、断片的なそれらの積み重ねにより、結果としてどうだったか。その蓄積が後々の思いへとつながっていくわけです。
では、全て覚えてない思い出は意味が無いのでしょうか。
頭の中で捏造されようが、脚色されようが、何だっていいんですよ。
自分にとってのそれが思い出なわけで。
それと一緒で、小説を読むに際しても人物名、場所、セリフ、それらのどれを覚えていて、どれを覚えてなくてもそれが今の自分の答えであり取り留めたもの。
内容が抜け落ちてようが、認識が違ってようが、人物を間違えていようが、はっきり言って関係ない。
だってそれが自分の感想ですから。
また読み返して感想が変わったって良い。
それがこの小説を読んでいるどこかで抱いた最大の収穫。
大事なことは読んでいてなんとなく心地が良いとか、世界観に浸れるとか、そんなことで全然構わない。
それで自分が楽しめればそれで最高じゃないですか。
物語と記憶を辿る本作の試作、そこに小説を書くということの思慮も加わり、独特で不可思議な現実味のある、非現実的な世界を辿る物語。
当たり前の日常であっても、恋愛というある種マジックリアリズム的な作用は見方を変えればこうも面白く映るのです。
では。
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