『ルノワール』
長編初監督作「PLAN 75」が第75回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門でカメラドール(新人監督賞)の次点に選ばれるなど、国内外で高い評価を得た早川千絵監督の長編監督第2作。日本がバブル経済のただ中にあった1980年代後半の夏を舞台に、闘病中の父と、仕事に追われる母と暮らす11歳の少女フキの物語を描く。2025年・第78回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品され、早川監督にとってデビューから2作連続でのカンヌ映画祭出品となった。
1980年代後半。11歳の少女フキは、両親と3人で郊外の家に暮らしている。ときに大人たちを戸惑わせるほどの豊かな感受性を持つ彼女は、得意の想像力を膨らませながら、自由気ままに過ごしていた。そんなフキにとって、ときどき覗き見る大人の世界は、複雑な感情が絡み合い、どこか滑稽で刺激的だった。しかし、闘病中の父と、仕事に追われる母の間にはいつしか大きな溝が生まれていき、フキの日常も否応なしに揺らいでいく。
マイペースで想像力豊かなフキが空想にふけりながらも、周囲の大人たちの人生に触れていく様子を通して、人生のままならなさや人間関係の哀感を温かなまなざしとユーモアをもって描く。フキ役はオーディションで選出され、撮影時は役柄同様に11歳だった鈴木唯。フキの母・詩子を石田ひかり、父・圭司をリリー・フランキーが演じるほか、中島歩、河合優実、坂東龍汰らが顔をそろえた。
まず言えること。
ポスタービジュアルにあるような陽気さや明るさを期待していくと間違いなく叩き落される。
正直、これは食らいました。想像のはるか斜め上をいっていた。
でも、これが悪いという意味でもなく、なんなら鑑賞後にこのビジュアルを見るとまた違った感情を抱かされる。
なぜこのビジュアルにしたのか、それ自体が映画が内包する不可思議さと呼応する気もあるなと思ったり。
舞台となったのは1980年代。私自身が生まれた年代でもあり、その空気感、風景、感覚、どれもが懐かしくもあり、知らない側面もありといったノスタルジーを帯びた情景が広がる。
ちなみにこれは岐阜市で撮影したようで、その街並みに80年代の空気感を残している部分があるようで、そうした街並みがまだ存在することにも驚かされる。
物語としては11歳のフキという少女が世界との関わりの中であれやこれやを経験、体験してくわけですが、この11歳のフキ役を演じた鈴木唯さん。恐ろしく素晴らしい演技力でした。
撮影当時、実際に11歳だったとのことですが、それにしても11歳離れした役柄による制約の妙を良くあそこまで体現出来たなと。
あのような子が実際に11歳でもいるのかもしれませんが、作り込みで作るにはあまりに風変わりで、独特な空気を纏った存在。
そこの演技力だけでも見る価値十分。
とまあ細かいところから書いてしまいましたが、作品自体は混沌としており、何とも言えない空気が漂い続ける。
この”禍々しさ”が全編を通して、絶対的な支配力を持っており、不安というか、心をかき乱されるような、何とも言えない複雑な感情を抱かされる。
子供らしさや軽妙さが感じられるシーンでさえ、どこかしら不穏というか、重々しい空気が流れ、とにかくなんだか気が抜けない。
冒頭からしてその様子は表れており、暗い中でビデオを観るフキ、そしてゴミ捨て場での不穏さしかないあのシーンへ。
暗がりと対比されて見える外の明るい世界。
そのコントラストが印象的で、禍々しさが渦巻くのは子供から見れば興味深くもあり、不可思議で滑稽なものなのか。
終始フキの視点を中心に進んでいく中、彼女が抱いているのは日常における疑問と湧き出る興味関心のみ。
その純真さを通して見えてくる社会、大人という混沌さは、作品のような奇妙な世界として見えているのか。
序盤で問われる「人が死ぬとなぜ泣くのか」、あまりに唐突で答えの無い問いに対し、これに近しいような、当たり前として消化してしまっている問題にも向き合わされ続けていくことになる。
子供の頃って興味だけで全てが進んでいたし、他人の事、世界の事なんてこれっぽっちも頭に無かった。
あるとすればそれらが自分にかかわる場合においてのみであって、それ以外では考えることすらも皆無。
怖いもの知らずというのは知らないから怖いと思わないわけで、であるならば大人になるにつれ、怖さを知ったから思考が勝ってしまうのか。
では、思考し、頭でっかちになることで、賢く、柔軟に世渡りをすることが可能なのかと言われればそれもまた微妙で、確かに世渡り自体は上手くなるのかもしれないが、賢くなるわけでは無い。
なんならそのグロテスクさを隠しつつ、隠すからこそ、肥大化するそれらを温存し、別の方法で消化する術を学ぶ。
これがいわゆる映画内で大人たちが行うことで、奇妙で気持ち悪い、それでいて滑稽な様というのは観ていて気持ちの良いものでは無い。
作中に流れる楽曲のアンバランスさ。気品ある選曲というのもこの対比において見事に効果を発揮しており、よりいっそう気持ち悪さを掻き立てられる。
だからこそ、この空気感が全編に漂っているとすれば、納得しかない、良くできた構造だなとも思えてくる。
作品を観ていて、環境音などが大きかったりした居心地の悪さというのも、もしかしたらそういったところの影響を反映しての演出なのかもしれない。
そう思うと終始居心地の悪い、定まらない混沌さがあるような不思議な映画体験だった。
タイトルとしての「ルノワール」。これにも諸説あり、監督自身は以下のようにも答えている。
1. ルノワールと光の関係
ルノワールは印象派の画家として、光の捉え方が非常に特徴的です。この映画も「曖昧な光の中でしか見えない真実」を描こうとしたと監督はインタビューで語っており、画家のルノワールとは直接関係なくとも「見ること/見えないこと」が作品テーマに重なっています。
2. “ルノワール”という言葉の響きの魅力
監督はあるインタビューで「言葉としての『ルノワール』の響きに惹かれた」とも述べており、日本語で話す中に突然フランス語的な柔らかくて異質な単語が混じる感覚を大事にしたとも。
これを見て、多角的な視点、そうした事柄を子供目線で見ることで見えてくるグロテスクな万華鏡に感じるのは納得のいくところでもある。
シンプルに大人ってなんであんなに取り繕って、しっかりとしたがり、それでいて実はエゲつないことをしているのでしょうか。
素直でいることや率直であることが必ずしも善ではないとも思いますが、それにしても偽善が蔓延し過ぎている。
混濁とした世の中で、何のために人と関わり、何のために生きるのかということを見失っている衒いすら抱かされる。
全てが目的と乖離し、逆転していくような世界になっていて、そのもどかしさが作品を通して滲み出てくるような気もする。
なぜ「人が死ぬとなぜ泣くのか」。
終盤でフキが涙を流し、寝ていたシーンを観て頭に浮かんだのは”最後のお別れだから”ということに尽きるのかもしれない。
泣く理由は人それぞれだけれども、突き詰めて泣く理由という意味で考えると正当に考えられる理由は”最後のお別れだから”というのが最もしっくりくる。
本当にもう会えない、いた時の思い出や、これからのことを思っても、もういない。
そう思うと自然と悲しさが溢れ、泣けてくる。
泣きたいから、泣こうとして泣くんじゃなく、ただ泣けてくる。
感情の核心を刺激されたように反応として流れる涙、あのフキのシーンにはそういった悲しみの反応が自然と感じられたのはとても印象的でした。
そして鑑賞後抱いた”拠る(よる)”という気持ちについて。
作品を通してある種の信仰や詐欺まがいのことも頻繁に出てくるわけですが、これも最後に自分の中で見事に繋がった。
フキの父親の死をもってそれが無意識的に繋がったわけですが、その父親は医学という知識を信じていた、母親はガンに効く薬を信じた(これは少し便宜的な部分もありますが)、中島歩演じる透は学問を信じた。
結局何かを信じたり、頼るということはすなわち人間にとっての不可欠な行為なのかもしれない。
それが何であれ、信仰の良し悪しはさておき、何も信じずには生き得ない。
逆説的な意味も含んでいると思っていて、河合優実演じる理子や坂東龍汰演じる薫などは信じたいから何かを見ないようにしている。
見ないことで何かを信じるということも結果としてまた信じているわけで、そう考えると可視性の有無に問わず、本質的に”拠る気持ち”というのは人間だれしも必ず抱くものなのかなと。
成長過程、大人になるにつれて出てくる感情だということを顕著に表しているのがあのお金持ち風の家族にあるものであって、子供はフキ同様なものの、親は囚われていく。
信じるものは救われるというのはあながち嘘では無いのかもしれない。
というか全体最適でない、自己最適においては確実に必要不可欠な要素であることは間違いなさそうだと。
ということを以てあのポスタービジュアルにあるあのシーンを観た時、思うところは”人生を謳歌せよ”という鼓舞。
愉しむために、良く生きるためにという本質的な生への問いをビジュアル化したあの光景は悲観的で混沌とした世界におけるある種の光として輝きを放っていたのかもしれない。
家で観るにはちと重い、なので映画館へ。
では。