『フェラーリ』
マイケル・マン監督がアダム・ドライバーを主演に迎え、イタリアの自動車メーカー・フェラーリ社の創業者エンツォ・フェラーリを描いたドラマ。ブロック・イェーツの著書「エンツォ・フェラーリ 跳ね馬の肖像」を原作に、私生活と会社経営で窮地に陥った59歳のエンツォが起死回生をかけて挑んだレースの真相を描く。
1957年。エンツォ・フェラーリは難病を抱えた息子ディーノを前年に亡くし、会社の共同経営社でもある妻ラウラとの関係は冷え切っていた。そんな中、エンツォは愛人リナとその息子ピエロとの二重生活を妻に知られてしまう。さらに会社は業績不振によって破産寸前に陥り、競合他社からの買収の危機に瀕していた。再起を誓ったエンツォは、イタリア全土1000マイルを縦断する過酷なロードレース「ミッレミリア」に挑む。
妻ラウラをペネロペ・クルス、愛人リナをシャイリーン・ウッドリーがそれぞれ演じた。2023年・第80回ベネチア国際映画祭コンペティション部門出品。
マイケル・マン監督らしい重厚かつハードボイルドな作り。
この監督の作品が観たい時というのは”男のロマン”その要素を感じたい時に観るわけですが、個人的には車映画というのも魅力的なわけでして、その意味で監督と作品の相性もすこぶる良い。
以前からやりたかった企画をようやくやれたという経緯があったようですが、その思い入れも感じるような作りが感じられ、端的に言って爽快さもロマンも無いというのが正直な印象。
あるのは事実と業に基づき、取り繕われた信念のみ。
冒頭から古びた映像に始まり、その後も何かありげな女性宅から幕を開ける。
手押しで車のエンジンをかけ、その後運転シーンに切り替わる。
手元と正面などのカットを挟み、相変わらずこうしたメカニカル、スキルフルな男が好きそうな技巧を感じつつ、自宅のシーンへ。
慌ただしい電話のやり取りがスリリングさを際立たせているのですが、冒頭から部屋の画作りに関して異様に雰囲気があり、木の質感、しっとりとした色味が非常に美しくシルキーさに惚れ惚れしてしまう。
この画作りの部分、終始安定してトーンが重厚で色のふくよかさが際立っているわけですが、撮影はエリック・メッサーシュミットだったんですね。
フィンチャー組の方で、「そりゃこの画作りには最適な人選だわ」と唸らされる。
暗部の表現、しっとりとしたカラーグレーディング。
本作ではそれにプラスして、フェラーリのひと際印象的な深みある赤色表現に目を奪われる。
フェラーリって独特な血のような赤色をしているなという印象があって、その独特さを映画の画作りと上手くマッシュアップし、通常よりも濃厚で艶感のある赤さが際立つ。
この唯一無二感、今にして構築されているブランドの歴史と重みというのをその画作りで過去に重ね合わせる。
表情のクローズも要所に挿入されており、それによる人間味の掬い取り、感情や気持ちの吐露というものも重層的に重なっていく作りも面白い。
話はそこからは基本的に人間模様を中心に話が進んでいく。
この人間模様もトーンが全体的に落ち着いていることもあってか、濃密なドラマに感じてとにかく終始見ごたえがあり、心地が良い。
では終始平坦な物語なのかというと全然そんなことは無く、マイケル・マンらしい”音へのこだわり”が良い起爆剤となる。
エンジン音を中心とした音の切れ味鋭く、腹に響くような低音の鳴りが過剰過ぎず心地良い。
銃撃戦もそうですが、こういう男の趣味的なものに対しての造詣の深さが異常なんですよ。
徹底的にこだわっているからこそ滲み出る表現の際立ち。
そんな車のメカニカルな部分が最も光るのはミッレミリアのレース内での車のやり取りは非常に見もの。
細部のディティール、レース描写、ピットでのやり取りなど、カッコイイが詰まっているのは間違いなくこの箇所。
ここだけでも十二分にアガるところがあり、純粋に車というメカ、レースという極みに否応なく引き込まれてしまう。
ちなみに、この作品では十八番の銃撃戦は無いものの(発砲はあるが)、エンジンにおけるそれがただただ染み入る。
物語における容赦の無さというのも本作の肝だと思っていて、それがあるからこそ、レース、ひいては物づくりの発展というものの奥行を感じさせる。
ミッレミリアでの事故とういものをあそこまで生々しく描くというのもあればこそ思うところもあるわけでして、故に観るものの心臓を抉ってくる映像に仕上がっている。
当たり前のことですが、危険なものを作るということはそれ相応の犠牲のもとに成り立っているわけで、その重みを感じさせるにはこれくらいドストレートに表現しなくては伝わらないとも思える。
技術的、素材的にも今よりはるかに劣る中、人力による努力と度胸の賜物こそが現代においてブラッシュアップされ日常に浸透している。
これって意外に忘れがちな視点ですし、今の方が安全基準なんかも厳しい分、突拍子も無いようなものが生まれにくいということも時代性の一旦な気がします。
どちらが良いというわけでは無いものの、技術革新の背景にはこうしたものが絶対的に潜んでいるという事実、これを噛み締めずにはいられないところが本作によって顕在化したというのはストーリー以上に映像としての力が大きかったように思えてなりません。
”自由”に対するところも同様で、かごの中の鳩とフェラーリ一族。
終盤でラウラが述べていたように元は自由であったはずがいつのまにか自由を失い、それにすら気付かず抗えもせず。
人の一生も兎角例外でなく、年齢を重ねれば自由への裁量が大きくなるはず、と思っていたものの、ある意味でそれは逆であって、外の世界の広がりと反して自己の世界が縮小していく。
感覚的な世界は広がっているのに、様々な枷により自由に飛べないというのは重くのしかかるテーマとして、今の自分には響くところが大きかったような気もしております。
いずれにせよ賛否両論ある作品かとは思いますが、個人的にはかなり好きな作りの作品でした。
では。
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