『アマデウス』
ピーター・シェイファーによる戯曲を「カッコーの巣の上で」のアカデミー賞コンビ、製作ソウル・ゼインツ&ミロス・フォアマン監督で映画化。19世紀の楽聖ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトの半生を、彼を妬む宮廷音楽家サリエリの視点から描く。出演はサリエリにF・マーレイ・エイブラハム、モーツァルトにトム・ハルス。1984年度のアカデミー賞では作品賞、監督賞、主演男優賞を含む8部門で受賞した。
1984年製作とは思えない完成度。
本作はモーツァルトの死にまつわる話が語られ、紐解かれていく構造になっているのですが、実際、彼の死には実際のところ謎が多いようでして、そことのすり合わせ的解釈が面白い。
モーツァルトの死:
35歳で急死(1791年)、病気で亡くなったとされる。主な原因は不明だが、感染症や腎不全の説が有力。
毒殺説もあったが、証拠はなく今は否定されている。
死の直前に「レクイエム」を作曲中だったため、「自分の死を予感していた?」とも言われる。
オペラを軸とし、舞台設定や美術の作り込みから現代性を削いでいることもあり、今観ても全く古びていない。というか実際に古いものを再現しているのだからそれは当然と言えば当然なのですが。
いわゆるモーツァルト。
名前は知っているし、楽曲も聴けばわかるものが多いはず。
ですが、その実、彼の何を知っているのかと問われれば、自分も含め多くの方が疑問符の付くような人物なのはたしか。
クラシックの偉人などはほとんどがそうでしょうが、楽曲以外のバックボーンや人柄といったところは抜け落ち、曲だけが浮き彫りになる。そして多くの人にその印象だけが残るという。
そんなモーツァルトに対し、サリエリというこちらも名前だけは知っている宮廷音楽家の目線から紐解いていくという構成。
まず、驚くのがモーツァルトの人柄。
ちなみに軽く調べると。
モーツァルトの人柄:
天才だけど自由すぎる性格:子どもの頃から音楽の才能にあふれ、大人になっても自分のやりたいことを貫いた。明るくおちゃめ:冗談やいたずらが大好きで、少しふざけた手紙も残している。
感情豊かで家族思い:喜怒哀楽がはっきりしていて、家族への愛情も深かった。
世渡りは苦手:才能は抜群でも、お金や仕事のやりくりはあまり得意じゃなかった。
ひとことで言えば:
「天才だけど、ちょっと不器用な愛されキャラ」
この時点で私の認識とは大きく異なる。
意外過ぎる。というか思っていたのと真逆と言っても差し支えないほど。さらに天才性に関しても想像を上回るところがあり、音楽に関する資質や感性は本当に素晴らしかったのであろうことが伺える。
だからこそなのか、自身の音楽的な観点に絶対的な自信を持っているところも顕著に表現され、当時の権力者といえば逆らえないような絶対性を持っていたような時代において、それでも自分の意志と考えを貫いたというのは驚きしかない。
脚色されている部分はあると知りつつも、ここまで一つのことに時間を割き、才能を謳歌するというのは見事であるし、熱意といった一言で片付けられるほど単純で無いというのもうなずける。
”天才だから苦労しない”というのは間違いであり、”天才だからこそ苦労する”という構図がぴったりな振る舞いに沁み入るものを感じた。
劇中で使用される楽曲の使い方も秀逸で、映像とのリンク、フェードイン、アウトの感じというのは、どこか劇的であり、その部分も作中のオペラとクロスオーバーするところがあり、サウンドをコントロールする指揮者さながらの揺蕩いは観るものを心地良い感覚に導いてくれる優雅さを纏う。
冒頭の唐突な始まり、そこからサニエリによる独白めいた設定でつなぐというのも上映時間の長さを考えると、それでもってしまう面白さがあるなと。
効果として、チャプターを区切る語り部のような役割を果たし、幕間の緩急を映画に持たせてくれるようにも感じる。
双方の関係性にも物語が重層的にシンクロしており、羨望から恨み、そして和解へと向かう構成の中、真にその物事(ここで言うところの音楽)に向き合うものであれば結局たどり着くところは似たような結論に至るというところも感慨深く、蓋を開けてみれば最初から真の理解者というのはサリエリ、彼だったというのは皮肉なところでもあり、納得すべきところでもあり。
努力の才能を持った秀才、サリエリに対し、生まれながらの天賦の才を持ったモーツァルト。
一見すると対局にいる彼らですが、その背景にある思いや、感性、情熱や努力といったものは映画を通してもひしひしと伝わってくる。
160分と長い作品ながら、映像美と至上の音楽のハーモニー、それを体現する役者陣の演技の素晴らしさを堪能していればあっという間に終幕へと向かうことでしょう。
では。
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