Blcrackreverse

Diggin LIFE 掘って掘って掘りまくれ!

Blcrackreverse

『しんせかい』が描く、”生”の輪郭の曖昧さ

『しんせかい』

十代の終わり、遠く見知らぬ土地での、痛切でかけがえのない経験――。19歳の山下スミトは演劇塾で学ぶため、船に乗って北を目指す。辿り着いたその先は【谷】と呼ばれ、俳優や脚本家を目指す若者たちが自給自足の共同生活を営んでいた。苛酷な肉体労働、【先生】との軋轢、そして地元の女性と同期との間で揺れ動く思い。気鋭作家が自らの原点と初めて向き合い、記憶の痛みに貫かれながら綴った渾身作!

手触り感の無い、言葉の連なり。生気を感じない、というよりも、感じさせないようにしているということなのか。

いずれにせよ淡々と語られるそれらは人ごとのように思える奇妙さがある。

物語としてのそれも同様で、本筋が何なのか、そもそもあるのかすら疑問符が付くような曖昧な描写。

すらすらと読めてしまうのは語り手による、他人事な様相がそうさせるということも多分にあり、文体や文節ががそれに伴って不定形、口語的であるのも一因な気がする。

俯瞰してみるとその様はよくよく見えてくるもので、主人公である彼が言った、「世界というのは地続きとは思えないほど奇妙で風変わりな生活環境」というのが物語るように得てして特異なもの。

それがまったく地続きですぐ隣にあるという不思議さと世界の矮小さを感じさせられるようなミニチュアライズされた世界観。

一風変わったと一言で片付くようなことも、ある意味では誰しものすぐ側にあることなのかもしれないと思うと、その境目はひどく不確かに映る。

自分事とするか、他人事とするか。世界の認知というのはこの基準の持ち方でどれほどに変わるものか。

この作品から何の興味も好奇心もそそられないというのは、生を自らの意思で堪能していないということの現れとみなすことも出来るような。

淡々と語られる事象というものはこうも軽薄で頼りなく、気を引かないものなのか。

起きていたことが現実なのか夢なのかということも含め、構造さえも定まらず不明瞭さが全体に漂うというのもまた、面白い。

一瞬、「これは全て演劇の一部で、俳優たる彼らのその中に入り込んでしまっていたのか」と思ったりもしつつ、「いや、これは現実の事実だ」とか、「死後の回想によるそれか」などと言った多面的な構想を思い浮かべてしまうのもこの小説の曖昧さゆえ。

どこにそれがあるのかというと、紛れもなく書き方にあるわけで、フィクション性、ノンフィクション性を帯びているというところにおいても線を引ききれない。

思い返せば人物の描写もそうだ。

大勢の人物が登場し、さらっと紹介され、それらの人物にも深入りしない。

理解したり、共感したりの余白があまりに希薄過ぎ、物語の一部として、本当に一部としてのパーツのような存在としてしか認識することが難しいような個の薄情さ。

要するに

全てが薄く、淡々と過ぎていく日常的なる物語の描写。

現代の”生きる”ということへの希薄さを絵に描いたような、世界との交わりという点における軽薄さを鑑みると、あまりに酷似した世界だとも言えるのかもしれない。

では。