『her 世界でひとつの彼女』
「マルコヴィッチの穴」「アダプテーション」の奇才スパイク・ジョーンズ監督が、「かいじゅうたちのいるところ」以来4年ぶりに手がけた長編作品。
近未来のロサンゼルスを舞台に、携帯電話の音声アシスタントに恋心を抱いた男を描いたラブストーリー。他人の代わりに思いを伝える手紙を書く代筆ライターのセオドアは、長年連れ添った妻と別れ、傷心の日々を送っていた。そんな時、コンピューターや携帯電話から発せられる人工知能OS「サマンサ」の個性的で魅力的な声にひかれ、次第に“彼女”と過ごす時間に幸せを感じるようになる。主人公セオドア役は「ザ・マスター」のホアキン・フェニックス。サマンサの声をスカーレット・ヨハンソンが担当した。
以前見た時と全く異なる感触。
2013年製作とそこまで古い作品では無いものの、今見ると印象がガラリと変わる。
当時といえばまだAIであるとか人工知能であるとかと言ったものは今ほどに普及しておらず、未来としてイメージするにはまだSF的な様が先行していたんですよね。
それが追いついた。
まだ完全に普及したわけでは無いけれども、歩きながらイヤホンをし誰かと話す、仮想空間や仮想現実、有線から無線へと変わっている様相はまさしくこの世界そのもの。
監督はMVの印象が強かったスパイク・ジョーンズ。
この作品で確実に景色が変わりましたよね。
『マルコヴィッチの穴』などからもそうでしたが、本作はさすがに映画ファンでもちょっと素晴らしいといいますか。
脚本、映像、音楽、ファッション、美術、どれをとってもソリッドに研ぎ澄まされた世界観が堪能でき、好き嫌いはさておき、完璧な世界観が構築されている。
ファーストルックで驚いたのが映像の質感。
柔和な印象があり、ソフトフォーカスのような映像、それでいて輪郭のシャープさは保たれており、絶妙なバランスでのファンタジー感が心地良い。
そこにパステル調のトーンが加わることで、いっそうその様相が強化され、現実であって、未来的な世界が描かれている。
話によるとエキストラ含めた演者は”デニムを着用しない”とか”シャツの襟は極力無しor小さめ”いうような制約を課し、独自の統一感を出すことで、あのなんとも言えない雰囲気を演出したとのこと。
確かにあれは効いてましたよね。
そんな撮影監督はホイテ・バン・ホイテマ。私は『007 スペクター』で初めて知ったんですが、今やノーラン組としても有名ですよね。
そしてファッションですよ。
ホアキン・フェニックス演じるセオドア。ハイウエストのパンツにシャツスタイル。きれいめに見えてどこかいなたさを感じさせるのは髪型に拠るところが大きいのかも。
クリエイター気質な部屋との相性も良く、洗練された印象と内包する繊細さがファッションにも良く出ている。
色の使い方なども彼の精神状態を良く表現していると思うし、胸ポケットの安全ピンという最強のモチーフもあのいなたさがあればこそ成立する、絶妙な丁度良さ。
メガネに関してもフレンチビンテージ風なルックに見えつつ、カラーリングで近未来的な雰囲気も感じられる。
この辺の絶妙さが全てのファッション的小技が効いているなと。
部屋のルックにしてもそうで、現代でありつつ、未来的な要素を感じるものが色々と散見されるんですよね。
スマホに近い存在のあの携帯のルックも可愛らしく、デバイスとして純粋に面白いですよね。部屋でのゲームの遊び方、オフィスのインテリアなんかもそう。
見せ方、存在感が丁度いい。
音楽もクレジットでアーケード・ファイアが関わっているという納得の相性具合でしたし、AIの声がスカーレット・ヨハンソンというのもにくい。
話の本筋にしてもそう。AI(OS)との恋愛というものを通しての”本当の愛”とは。
確かに、肉体が先で精神が付いてくるのか、はたまたその逆は。
そもそも人間の感情とAIの感情というものに差異はあるのかというようなことすら感じさせられるというのも今見ればこそ感慨深い。
人が何かとの”関係性”を断ち切れない以上、その関係性の質も形も変わっていくはず。でも受け入れられなかったり、アップデート出来なかったりという矛盾もはらみつつ、変わるもの、変わらないものという見極めもよりシビアになってくる。
利便性を享受するのは簡単なことだけど、それだけでない、感情的、本質的なものについてはどういった姿勢で向き合えば良いのだろうかと自問自答しながら見ていると非常に深く、簡単には答えが出ないような深淵に連れて行かれる気もする。
現実の世界でも価値観が異なれば仲違いするように、AIとも価値観が異なれば同様になるのだろうか。
作中で「過去は自分たちで作っている」というような会話があったのように、変えられるのはあくまでも今から未来しかないということ。
じゃあ過去は無かったことになるの?
だとするとそれまでの思い出や出来事は?
セオドアのカットバックされる映像が痛々しくもあり、それがまた現実でもあり、生きていれば生きているほどこうした堆積の重みが増してくるわけです。
それらを繋ぐ意味合いとしてもセオドアの行っていた職業、代理で手紙を書くという手紙そのものの意味であったり、実際に本として出版する意味であったりという現存する”モノ”という意味合いも考えさせられる。
サマンサが示した、写真という二人の共有物の代わりに提示した音楽という存在も粋でしたね。
実態が無いからこそ画では示せない。
けれどもそれを抽象的で、それでいてモノとしては存在する音楽に落とし込み共有する。
あの発想、あの起点の利かせ方はお見事。
考えれば考えるほど答えの出ない迷宮に迷い込みそうですが、映像として、作品としての強度が高いのは間違いない作品。
改めて見て感じたことがまた次に見たときどう変わっているのか、映画の楽しみはそういったところにも残っているなと感じた次第でございます。
では。