『クルージング』
「フレンチ・コネクション」でアカデミー賞を受賞し、「エクソシスト」が世界的大ヒットを記録したウィリアム・フリードキン監督が1980年に発表した作品で、当時のニューヨークの、アンダーグラウンドのゲイカルチャーを背景に描いたクライムサスペンス。
夜のニューヨークで、ゲイの男ばかりが狙われる連続殺人事件が発生。密命を受けた市警のバーンズは、同性愛者を装い、ゲイの男たちが集うSMクラブへの潜入捜査を開始する。そこで毎夜、男たちによる性の深淵をさまようバーンズは、身も心もすり減らしていくなかで、ついに犯人の手がかりをつかむが……。
1973年から79年にかけて実際にゲイの男性ばかりが惨殺される殺人事件があり、その容疑者となった人物が「エクソシスト」にも出演していたことから、フリードキンが容疑者との面会などの体験を経て脚本を執筆。ハリウッド映画で初めて男同士のSMセックスを正面から描いた作品とされ、同性愛差別を助長するとして製作発表時から公開後まで抗議活動を受けるなどし、興行的には振るわなかった。一方で、2000年代に入ると、HIVウイルスが世界に蔓延する前のゲイカルチャーを記録した貴重な作品として再評価もされている。
兎にも角にも衝撃的。
フリードキン作品は劇場で『恐怖の報酬』を見て思い知らされたわけですが、この人は本当にドキュメンタリータッチの劇映画を撮らせると臨場感が凄い。
圧倒的生々しさとともに熱気と男臭さでむせ返るような空気感。
どのカルチャーもそうですが、そのものの本質を知らなければ、垣間見ることすらも許されないのがカルチャーというもの。
この作品で取り扱うのは”ハードゲイ”という名前だけならば知っているであろうが、それだけという方がほとんどじゃなかろうかというような代物。
まさしく自分自身もそうで、強いて言うならばクイーンのボーカル、フレディ・マーキュリーがその類の世界に傾倒していたのを知っているという程度。
それがここまでのリアリティを持って描かれているとは。
主人公バーンズ演じるアル・パチーノが観客と同じ視点でその世界に潜入していくわけですが、これはいくら仕事、刑事とはいえ、覚悟無くして飛び込める生易しい世界じゃないわけですよ。
言ってしまえばハードゲイ版の『ディパーテッド』。バレたら終了、掘られてなんぼな世界なわけで、ストレートな人間がそこに入るスリルと、気概、その緊張感と怖いもの見たさみたいなものがこちら側にも伝わってくる。
画作りによるところも世界観と見事に調和しており、湿度を伴った景観や人物、ネオンと暗がりの際立つところはぞくぞくさせられる。
赤や青といったカラーリングでのデンジャラスさを帯びた禍々しさ、夜の街に溶け込むには十分過ぎる不穏な空気を纏った画というのも見事な演出でしたね。
それ以外にもルックとして、まるで彫刻や美術品を見せられているような横スクロールでのクラブ内ショットや下半身のみにフォーカスしたショットなど、野心的なショットが多く、それでいて美しさも感じるような異様なものが印象的でした。
何よりもインパクトが強い。
とまあ作品自体が扱うテーマ通りの映像的インパクト。
サウンドも同様で革の擦れる音やアスファルトを歩く音、そこかしこに紛れ込んだ環境音などもとにかく全てが生々しい。
サントラもとにかく尖った、ハードでパンクなテイストのものを積極的に好んだようで、場面の印象と良くも悪くも波長がピッタリ。
この曲などは特に印象的で、その後タランティーノも気に入り、『デス・プルーフ』にも使われていたそう。わからんでもない有無を言わさぬ格好良さがあったのは、間違いないわけです。
ハードゲイがなぜあのような格好をしているのか、革ジャン、警帽、デニム、タンクトップ、ティアドロップサングラス。
絶対的な不可避さを纏った謎ながら、それを知らずとも見れてしまう意味深な説得力があるというのもカルチャーをしっかりと表現していたからなのか。
途中に登場する謎の紐パン、テンガロンハット男などもそうですし、覆面男もそう。
マッドマックスの世界を地で行くような、なんなら退廃した世界じゃないこちらの方がよっぽど理解するのは難しいくらいではある。
とにかくわからない文化が多過ぎる。にしてもあのテンガロンハット男は謎過ぎますが。
調べるとああいった男性はハードゲイのクラブなどに実際にいたそうで、所謂普通のクラブで言うところの黒服、ようは問題などが起きた際に強行で追い出したりするような立場としていたみたいです。
これもまた知らなければ何がなんだか。知っていてもあの場面でのそれは納得しづらいですが。画的に純粋に笑えるという部分もありで。
そして、謳い文句として「闇を覗き込めば、闇もまたお前を覗き返す」というように、虎穴に入らずんば虎子を得ず、世界に浸らなければ良し悪しの判断すらままならないんじゃないかと思わされるんですよね。
興味の有る無しも当然あると思いますが、傍から見ているその世界と、渦中から見た世界というのは往々にして異なることも多く、過激な世界であればあるほどその差異は大きくなるのか。
正直ハードゲイに全く興味なかったのが、これを見て、ある種の興味は湧きましたからね。
その影響として、ハワードの影響も少なくなく、彼自身が狂気に取り込まれ、少しづつあの世界の住人と化していくんですよね。
そして観客である我々と呼応してくる。
社交場で誘われて踊るシーンなんて、コマ送りのような演出で、それまで異様と感じていた空間とリンクし、高揚感が最高潮に達するような、そんな気持ちの良さが追体験できた気すらしましたよ。
そこからも何となく拒絶する感情を抱きつつ、侵食されていく感じが続き、徐々にどうなっていくのか。
この辺の没入感の持って生き方がフリードキンならではだなと。臨場感を伴って、徐々にその世界に溶け込ませる巧みさ。
ラストへの展開もならではのもので、結局どうなったのかという。
フリードキン作品は他作でもそうですが、ファジーに終わらせ、観た者をその世界から抜け出させてくれないところがあると思うんですよね。
フックを残し、何かの際に思い出させるような。あれをどう捉えるかは個人に拠るところだとは思いますが、作者の気質と呼応するように、一度足を踏み入れた世界からは用意に帰ってこれないのではないか。個人的にはそう思っております。
余談ですが、観に行く前、鑑賞者がもし全員ハードゲイだったらということを考えてしまったのは杞憂に終わりましたので悪しからず。
では。