「【IMAX推奨】『DUNE/デューン 砂の惑星 PART2』:圧倒的な映像美を堪能せよ!」
「メッセージ」「ブレードランナー2049」のドゥニ・ビルヌーブ監督がフランク・ハーバートのSF小説を映画化し、第94回アカデミー賞で6部門に輝いたSFアドベンチャー大作「DUNE デューン 砂の惑星」の続編。
その惑星を制する者が全宇宙を制すると言われる砂の惑星デューンで繰り広げられたアトレイデス家とハルコンネン家の戦い。ハルコンネン家の陰謀により一族を滅ぼされたアトレイデス家の後継者ポールは、ついに反撃の狼煙を上げる。砂漠の民フレメンのチャニと心を通わせながら、救世主として民を率いていくポールだったが、宿敵ハルコンネン家の次期男爵フェイド=ラウサがデューンの新たな支配者として送り込まれてくる。
ティモシー・シャラメ、ゼンデイヤ、レベッカ・ファーガソンら前作のキャストに加え、「エルヴィス」のオースティン・バトラー、「ミッドサマー」のフローレンス・ピュー、「007 ノー・タイム・トゥ・ダイ」のレア・セドゥが新たに参加。
まさかこんなにハマるとは。
普段であれば鑑賞後すぐにブログを書くんですが、この作品は納得するまで書きたくなかったんですよね。
別にブログ自体にそこまでのクオリティを求めているわけじゃないんですが、書いたら一旦消化してしまう気がして、ただただその余韻に長く浸っていたかった。
ちなみにこれを機にパート1も何度か観返していて、それにより当初よりはるかに評価は上がっていたんです。ただ、それでもダントツに2の方が面白い。
まあ1自体が準備段階というか序章、物語がほとんど始まってすらいないですからね。
結局現時点で4回の鑑賞。まだまだ行ければ行きたいわけですが、それほどに圧倒的な世界観と映画体験でした。
そんな本作、色々な所でIMAXが推奨されているわけですが、これは冗談じゃなく本当に激推奨。
これまでもIMAXでの鑑賞は何度もしてきたわけですが、本作以上にIMAXを堪能できた作品はありませんでした。
何度もいいますがそれくらい圧倒的。
逆に言えばこれを家で観た時、どれくらい印象が変わってきてしまうのか。それも改めて確認したいところではありますよね。
ちなみにパート1に関して言えばIMAXを10点としたとき、ドルビー8.5、通常映画館6、家4.5。それくらいの肌感覚。
そんなIMAX向きな作品なんですが、何がそんなに向いているのかと言うと、ざっくり3点。
まず、縦の構図を存分に利用しているということ。
一般的なシネスコサイズが2.35:1に対して、IMAXは最大で1.43:1の画角にまで拡張するんですよ。これは一般のスクリーンに比べて約40%も広い。
特に縦の比率拡張が半端じゃなく、体感すると、ここまで縦が意識されているのかと驚かされるほど。
そうした効果が存分に発揮された画作りで構成されているのが本作というわけ。
見下されている感じや見上げている感じ、引きでの深さや高さを感じる構図もそうですし、サンドワームが出てきた時の圧倒的なサイズ感も圧巻でした。
それから画面の迫力を引き出すロングとクローズを使い分けたカメラワーク。
これも驚かされたんですが、今までのIMAXってロングショットやアクション的な迫力だけが違いとして出てくると思っていたんですよ。
それがクローズアップでもここまで差を感じることができてしまうとは。
微細な表情や気迫に満ちた表情。存在感増々でのそれと、ロングショットを巧みに組み合わせた表現というのは共に相互関係にあって、素晴らしく官能的でエモーショナル。
どっちも良いってことはつまり最高じゃないですか。画面上が常に最高な構図や画作りに満ちていて、恍惚感に溢れているんですよ。
個人的にはチャニの表情や、ポールの表情が様々な感情を感じさせ魅力的でしたし、二人が砂漠を背景に座っているショットなんかはサウンドも相まり、美しすぎて惚れ惚れしたほど。
そして最後が音響面。
12chサウンドシステムを採用していて、とにかく低音、効いてます。
まるでライブにでも来ているかのような臨場感と、震えるようなスリリングさ。
サンパーで煽られるのはサンドワームだけでなく、観ているこちらも煽られている気がするのは間違いなく、リズミカルな低音のループの効果もあるからでしょう。
音楽を手掛けているのはハンス・ジマー。監督同様、DUNEの大ファンらしく、そのこだわりっぷりや世界観の演出に、これでもかというくらいの意気込みで挑んでいることがひしひしと伝わってくるサウンド演出。
この”低音感”っていうのは絶対に家では体験不可能ですからね。防音室に最高の音響機材を揃えれば不可能では無いかも知れませんが、常人にはとても用意できないですからね。
つまり家での体験は事実上不可能。
通常のスクリーンで観ても物足りなく、IMAXを10とするならば、通常は5と、半減してしまうほどの差がある感覚でした。
前作に比べると、2の方が家で観た時の劣化が激しそうですね。それくらいに圧倒的映画館仕様。
そして、その他の部分も凄かった。
まず、フェイドの生誕イベントでのモノクロ演出ですよね。
確かカメラはREDを使用して、黒い太陽のジエディ・プライムを表現したようなんですよ。
このモノクロも凄い。単なるモノクロでなく、白を極端に飛ばしてハイキーにすることで独特な白すぎる白という特異な色彩に映すという演出がバチくそにハマっている。
花火的な祝砲もドゥニ・ヴィルヌーヴ作品、「メッセージ」を思わせる、墨のような独特なもので、これが奇妙で美しいんですよ。
とにかくいちいち設定と作り込みが素晴らしいのなんのって。
そーいえば、個人的にツボだったのが見れば見るほど、ハルコンネン家の人物たちが魅力的に見えてくるというところもありましたね。
特にウラディミールですよね。
前作の毒ガスの時に隅っこで浮いていたり、黒風呂に入っていた時のコミカルさもさることながら、本作では更に色々とブラッシュアップ。
黒風呂もそうですが、ラッバーンが部屋に入る前のシーンもそう。女性の奇声がして、入ってみると何があったのか全くわからないけど、何事も無かったかのように入浴中というシュールさ。
フェイドの生誕祭での「Happy birthday・・・」という時の何とも言えない表情もそう。
あとは生誕祭終わりでのフェイドに対する皇帝の座も夢じゃない的な話の最後に言う「フェイド・ラウサ・ハルコンネン」の時のドヤ顔もですよ。
極めつけは終盤のシーン、殺される前でも皇帝の玉座に座りたいとする執念の階段這い上がりっぷりもなんか憎めないんですよね。
どれもが何か愛嬌を感じてしまう滑稽さを秘めているというかコミカルに見えてしまうんですよ。
別にハルコンネン家、好きじゃないんですけど憎めないんですよね。作品の表現上。原作ではそんな気は一切しないんですけどね。
それからテーマ的な部分を考えると、相変わらず「支配的」な構造はあったなと。
結局人は見えている世界の上位概念に支配され、その上位概念でさえさらに上の概念に支配されているような構図。
自分たちが生きている世界でも、主観が変わればその視点も変わるわけで、会社なんかでも新入社員、中堅社員、役付け社員、役員、社長、などと視点が変われば今まで見えていた世界と変わらないはずなのに見え方だけが変わっていきますし、感じ方も変わってしまう。
つまり「立場変われば・・・」ということなんですよね。
それからこの話、パート1だけみるとポールの英雄譚のような成り上がり物に見えるかと思うんですが、実際のところむしろ逆で、反英雄譚的な話なんですよね。
搾取される側から搾取する側になる、力無きものが力を持った時にどうなっていくのか。ということを考えた時、絶対に今までの気持ちを持っていられるかという切実な部分があるわけです。
その意味で原作とは異なりますが、チャニの視点というのはそれに対するアンチテーゼなわけで、パート3でそれがどういった描かれ方がするのか、非常に楽しみなところではあります。
とまあ細かいところを挙げるときりが無く、永遠に語れてしまうのであれなんですが、備忘録的につらつらと印象深かったところを書いて終わりにしたいと思います。
それでは。是非劇場で鑑賞ください。できればIMAXで。
・序盤のハルコンネン部隊が無重力装置で上昇していく浮遊感、逆に落ちていく重力感の対比
・フレメンの恋をすると青いものを身につけるという設定、その表現過程
・冒頭の山積みの人を焼き払うシーン(ハルコンネンがアトレイデスを)を終盤の同シーンで別の視点から(アトレイデスがハルコンネンを)という構造
・ベネゲセリットの企みも教母からジェシカ、対してラストでは「付く側を間違えましたね」というジェシカのセリフにより反転する構図
・皇帝の「心で民を掌握したかった」でもそれは不可能だった。というところからの、じゃあ力で制するしか無いでしょという行いの報いをポールから受ける構造
・サンドワームあんな苦労して乗ったのにフレメンはみんなあんな簡単に乗れるの?というくらい、サンドワームの上部で団らんみたくなっている移動シーンの謎
・核は人に使用してはいけないということで、砂山に放つが、確実にその核の影響出るでしょと思う場面
・ポールが覚醒し、南に移動したところからのダークサイドに落ちたなと思える、それまでの白を強調した画作りから黒を基調とした画作りへの転換
・原理主義の巣窟だからポールが南に行くのを渋った気持ちがわかると言いつつ、結果的に南に行くべきよと言い放つ。その結果瀕死になり、蘇ってのビンタって一体どゆこと