「時間軸の遊びと宇宙人の視点:『スローターハウス5』の不思議な魅力」
小説はワケのわからない物語を提供してくれるから好きだ。特に海外のそれは、文化的、社会的な背景の違いからなのか、よりワケのわからなさがある気がする。
そんな今回は「スローターハウス5」
カート・ヴォネガット・ジュニアによって書かれた半自伝的SF作品なんだけど、情報を入れないで見ると本気でわからない。
ぼんやりとした繋がりや設定、そういった大枠は入ってくるものの、SF要素であったり、あえて時間軸を崩して書かれた文章、この辺が頭をごちゃごちゃに掻き乱してくる。
じゃあ理解できないのかと言われればそういうわけでもなくて、むしろ情報を入れないで見た方がその曖昧さを楽しめると思うし、プロットの構成はしっかりしているから大枠は掴めるはず。
ちょっとその複雑になってくる二つの前提を書いておくと、まず、SF的要素の話から。
主人公ピルグリムが話の途中から、実は宇宙人に連れ去られたことがあるというエピソードが出てくる。
その宇宙人というのがトラファマドール星人というもので、彼等には時間が等価に見えるらしい。端的にいうと人間は時間を点で見ているのに対し、この宇宙人は時間を線として見ているということ。
ようは人間は一瞬一瞬という時を知覚しているけど、トラファマドール星人は全部の時間を同時に知覚しているということ。
それってどういうことって思うかもしれないんですけど、読んでいくうちにまぁわかってくるんですよ。
まず、その設定が面白いわけで、これだけでも十分楽しめる。
嫌なことがあっても、トラファマドール星人から言わせれば、そこは見ないで、楽しかった、もしくは楽しいであろうことを見ればいいんじゃないかと言ってくるところとか、なるほどなと思いますし。
でも、人間の知覚としてはそうだとしてもってなるじゃ無いですか、普通。
その感覚の差異というか、発想としても、物語としても面白いわけですよ。
過去に起きたことも、未来で起こることも、今も、同時に知覚した場合、全ては事実なだけであって、優劣も、是非もあるんだろうか、と。
このトラファマドール星に連れて行かれて動物園に入れられるんですが、それもまた不思議で、いわゆる地球における動物園の宇宙版。
人間が鑑賞される立場になるんですが、それもただの娯楽として行われている。人間が動物に対して行なっていることを逆の視点から見る不思議さ。
こんな感じで宇宙人とのある種対話的なシークエンスが挿入されることで、新鮮な視点、違った感覚で読み進めることができ、それが妙に刺激されるんですよ。
そして時間軸を崩して書かれた文章。
結構序盤の段階で、このことには気付かされるですが、このこと自体は非常に親切に、年代とか書いてくれてますから意外に安心良心的。
ただ、あくまでも半自伝的作りであるわけで、その上宇宙人との関係性も含めると、割とこんがらがってくるというか、行ったり来たりを繰り返し、出てくる人も被ったり被らなかったり。
逆にいえばそれも狙いなわけで、あくまでも抽象化して、均質的に捉えさせ、物語を曖昧に説いていく感じ。
作者自身も何かで書いていたように、戦争体験を真摯に、ダイレクトに書くには少々重すぎると言っており、それを考えるとこのブラックジョークを交え、時間軸もカットして繋げ直すような作りは至極当然の流れなのかもしれない。
そんな感じで、戦争という体験を下敷きに、半自伝として描くリアリティを担保した空想世界の混在した感じ。
現代では当たり前かもしれないけど、このクオリティでマッシュアップされた当時の感覚としては、かなりハイセンスな物語として纏まっていると思う。
話の中の一部を切り取ってもそのセンスを感じるわけで、一番響いたのがテレビで見た爆撃シーンを逆回しで見るところ。
普通はそんなことしないというのももちろんだけど、その描写を文字で起こし、頭の中で想像することで見えてくる奇妙さ。
これは是非読んでほしいところですが、爆弾が爆発する様から爆撃機に戻り、発射場へ戻り、爆弾を作る工場に、そこから人の手により分解され、鋼材や原子に戻っていく。
これってある意味驚くべきことで、全てが元に戻れれば確かに何も起きないんですよ。それを同時に知覚するとしたらなおさら。この発想って面白いなと思いつつ、このシチュエーションでこの発想を用いて語るということ。それが見事過ぎて。
全体を通してずっと面白いかと言われれば、今の自分にはそう思えない部分もありつつも、この気付きや訳のわからなさ、こういった楽しさを提供してくれたという意味で、かなり楽しめました。
この和田誠さんのなんとも言えない不可思議なイラストもかなりツボなところで、作品の不可思議さと呼応するような気の抜けた感じ、ジャケ買いしても後悔しない作品に仕上がってることは間違い無いでしょう。というか名作中の名作ですからね。
では。