人間の営みって一体。
『人数の町』
中村倫也の主演で、衣食住が保証され快楽をむさぼることができる謎の町を舞台に描くディストピアミステリー。
映画配給会社キノフィルムズを擁する木下グループが、映画業界の新たな才能発掘を目的に2017年に開催した第1回木下グループ新人監督賞の準グランプリ受賞作品を映画化した。
借金で首が回らなくなり、借金取りから暴行を受けていた蒼山は、黄色いツナギを着たヒゲ面の男に助けられる。蒼山のことを「デュード」と呼ぶその男は、蒼山に「居場所」を用意してやるという。蒼山が男に誘われ、たどり着いたのは、出入りは自由だがけっして離れることができない、ある奇妙な町だった。
蒼山役を中村が演じるほか、石橋静河、本作が映画初出演となる立花恵理、山中聡らが顔をそろえる。監督・脚本は、松本人志出演による「タウンワーク」のCMやMVなどを多数手がけ、本作が初長編監督作品となる荒木伸二。
この設定って改めて映像で観るとホント怖いなと思います。
人が人であることの意味というか、そもそも生きるということはというか、そういった人生の諸々を含んでいる気がするんですよね。
幸せの定義も人それぞれあるでしょうし、その人なりの悩みや葛藤も日々抱えている。それは分かった上で何のために日々生き、生活していくのか。
登場する小物や設定もいちいち気になるものが多くて、特にポスターにも書かれていたバイブルの存在が印象的。
宗教だとか法律だとか、社則、校則、それに近しいものは溢れているわけで、それも判断基準や拠り所として用意されているはずなんですが、その本質が形骸化するとこうなるんだろうなというか、表裏一体の怖さがあると言いますか。
チューターに言われる「疑問があればバイブルを読んでください、そこに全て書かれているので」は痺れるパンチラインでしたね。
人の行動は誰かに決められたレールを走っているわけじゃないと思いつつ、そうでは無いとも言い切れない絶妙な力加減のフレーズ。
現実世界と照らし合わせた時に出てくる矛盾を良く含んだ問いが度々登場しますが、それら一つ一つが地味に嫌で後々効いてくる。
冒頭からそうなんですけど、本作は終始淡々と進んでいくというか、画作りにしろ、サウンド、演出にしても、とにかくすーっと進んでいく。これがより怖さを助長させると言いますか、生きている感覚が無く、ただ動いているだけの印象を受けるんですよね。
その辺を最も感じるのが中村倫也演じる蒼山がバスで町へ行き、施設内に入っていくシーン。
電光掲示板で流れる殺伐とした情報に、殺風景な風景、流れる音声もシンプルな電子音声による指示のみ。
作業の様に流れていく様がフィックスのカメラで撮られ、誰もが既視感のあるような光景にハッとさせられる。
テーマパークの順番待ちや免許更新、今でいうとコロナのワクチン接種会場なんかもそう。
効率と秩序を考えるとそうなることは分かっているものの、それでもこうして映像で淡々と見せられると異質さを感じるというか、不気味というか。
そこから始まる奇妙な生活は、それこそ感情の機微が無い様な生活の連続、生きる為に生き、欲求は満たされるものの目先のことしか考えられない、今が全てで生活そのもの。
それはそれで幸せなのかと思ったりもしつつ、観ている中でやっぱり満足できないだろうなという感情も湧いてくる。
個人的に立花恵理演じる末永は良かったですね。
あの美貌と妖艶な感じというか、それまでの生活との対比、あの町での振舞い、狂ってしまった演技含め、とにかく見事にハマっている。
綺麗なんだけどそれ以上に底知れぬ怖さが勝ると言いますか、とにかく嫌だなと思う感覚と、そうでは無かったんだろうなと感じさせる雰囲気の線引きを絶妙に演じていて、凄く良かったと思う。
外出するシーンで起きることもそうで、考えないで行動すれば大したことでは無いものの、一つ一つの行動に『なぜ』という疑問符が付くと、事はややこしくなる。
作品内での蒼山も最初はその『なぜ』があったはずなのに徐々にそれも失われ、文字通り、いち人数として町に消化されていく。
結局大なり小なり、社会で生活していく上で多数派に淘汰されてしまう構造自体がおかしなもので、それが必要な場面もあることもわかりつつ、そうでは無い部分もそうなっていってしまうところに恐ろしさを感じてしまう。
いじめも戦争も差別も、問題の大半はこの多数派による淘汰で起きている気がすると考えると、社会の構造にウンザリもしてくる。
それらと同様に感情の有る無しも人として重要なんだなと思うのが、性交渉を申し込む紙を渡すシーン。
一見するとこんな簡単に誰とでもと思ってしまうけど、考えると人の欲に際限は無いわけで、ともすれば不毛な行動に成り下がってしまうのかもなとも思ってしまう。
バスの中で蒼山が石橋静河演じる木村紅子に告白する場面、一番怖いのが周りの無関心だと思わされる。
快楽しかない中では、他への興味も、自分の先行きへの疑問すら失い、ただ動いているだけに近い状態。
この映画では終始動いているだけに見える光景が出てくるし、そう思うことも、考えて観ているからこそ。
逆に映像として何も考えないで起きている光景だけ観ていればそうは思わないだろうし、別にそこまで嫌な気はしないんだと思うわけで、それが逆に怖くて吐き気がしてくる。
食事だってそうで、好きなものだけを食べ、人としての機能を失っても食べ続け、その後はどうなってしまうのか、とか。そんなシーンが度々出てくる。
木村紅子が出てきてからはその辺が一変するわけだけど、それも感情を起点とした作用によるものかと。
人を動かす原動力というか、根幹的なところにはこの感情が不可欠なんだろうなと思いつつ、画的にもその動きが見えてきて、その辺は中々面白い作りだと思う。
サウンド的に驚かされたのがエリア内から出ていこうとすると鳴り出す不快な電子音。
これは是非映画館で観たかったなと思うほど、良くできたサウンドだし、リアルに近い形で映像と共に再現されるその音響効果は映画自体の構造に素晴らしく寄与していたんじゃないでしょうか。
劇中でサントラが使われないというのもよりこの効果を引き立ててるんだと思うけど、何より不快感と嫌悪感を抱かせるあの感じは良いスパイスになっていると思う。
とにかくラストまで観た時のやるせなさは半端無く、ポジティブに考えられないこの設定にやられます。
これは考えれば考えるほど、今生きている自分そのものになりかねない、誰もがこの一端を担っているようなそんな物語な気がして、とにかく深すぎる闇を観た気がします。
完全に余談なんですが、タイトルである人数の町をずっと人形の町だと思っていて、今考えるとそれでも意味が通ってしまいそうなのは面白いミスリーディングだなと勝手に思っているところではあります。
人形としてでは無く、人として、個人として、自分として、どう振舞い、過ごすことが重要なのかを少し考えてみようかと思います。
では。
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