必用なのは情報じゃなく想像力なんじゃないか。
『バロン』
18世紀の伝説的人物バロン・ミュンヒハウゼンの活躍を描くファンタジー・アドヴェンチャー。
エグゼキュティヴ・プロデューサーはジェイク・エバーツ、製作はトーマス・シューリー、監督・脚本は「未来世紀ブラジル」のテリー・ギリアム、共同脚本はチャールズ・マッケオン、撮影はジュゼッペ・ロトゥンノ、音楽は「ダイ・ハード」のマイケル・ケイメンが担当。
18世紀、トルコ軍占領下にあるドイツの海岸沿いの町。貧困と飢えに苦しむ人々であふれた崩れかけた城壁の中の廃墟と化した小さな町のロイヤル劇場の舞台に、バロン・ミュンヒハウゼン(ジョン・ネヴィル)は突然姿を現わした。
彼は、トルコ軍は自分を探していると語り、なぜトルコ軍に追われるはめになったかを話し始めるが、あまりにも荒唐無稽で、誰にも相手にされない。落胆するバロンであったが、空想好きの10才の少女サリー(サラ・ポリー)に励まされ、トルコ軍をやっつける約束をする。
そこで彼はまず最初に、かつて一緒に戦った不思議な力を持つ四人の仲間達を集めるために、絹の下着で作った巨大気球に乗ってサリーと共に旅を始めるのだった。
頭と胴体が別の意志を持つ月の王のもとで世界一の足の速いバート・ホールド(エリック・アイドル)を、地底の神ヴァルカン(オリヴァー・リード)が支配する火山の国で怪力の持ち主アルブレヒト(ウィンストン・デニス)を、巨大魚の中で鉄砲の名手アドルファス(チャールズ・マッケオン)と、どんな遠くのどんな小さな音も聞こえ、すごい肺活量の持ち主グスタヴァス(ジャック・パーヴィス)をそれぞれ助け出すが、四人ともすっかり老け込んで昔の力を失っていた。
またバロンの背後にも死神の影が常につきまとうようになっていた。六人は何とか町の海岸にたどりつくが、トルコ軍の攻撃は一層激しくなってきており、バロンは意を決し、トルコ国王に会見を求め、事の決着をつけようと試みるが、実は……。
やはりギリアム作品に想像力が不可欠なことを改めて確認させられました。
ファンタジー的な物語はそこまで好きな方では無いんですが、本作はそのファンタジックを超えた先にある現実を見せられた気すらしてしまうところが面白い。
冒頭のテロップ、戦争を背景に「理性の時代」と出てきた時から既に自問の連続。理性があるのに戦争するのか。理性があるから戦争をするのか。
そんな感じで物語は始まり、序盤での「誰も物語なんて聞きたくなくなってしまった・・・」というセリフを受けて、本当に現代にも通じる問いだなと感じる。
効率化やマルチタスク、スマホやSNSといった色々なものに時間や集中を奪われる中において、得ていると思っているものは本当に得れているのか。そんな皮肉にも似た感覚を受けながら、バロンが語る嘘か本当かわからない物語の世界に引き込まれていきます。
物語の構造は非常に分かり易いものの、それが真実なのか虚構なのかがわからない作りになっている為、分かりずらい様な、ぼんやりとした作りにも見える。でも、それこそがギリアムの狙いだろうし、そこれこそが本作には必要な設定じゃないかと。
自分自身どちらかといえば合理的な性格だし、合理性は必要だと思っている。一方で想像力も必要だと思っていて、むしろ自分で考えたり、思ったりすることの方が重視するべきだと思っている。単に無駄な不合理がいらないと思っているだけで、想像性から来る非合理は絶対にあるべきだと思う。
そういった小難しいことを考えずとも、本作の映像的な部分は観るだけでワクワクするものだし、設定もそう。
音楽と美術のダイナミズムさを感じるだけでも十分だし、それがあってこその本作。舞台というかミュージカルというか、そういった生身の迫力を感じる作品に仕上がっている。
大人になればなるほど想像力が減ってきたなと感じるし、それ自体はしょうがないことなのかもしれないけど、本作でバロンが語るように、想像性を持つことは本当に重要なことだと思わされる。難しく考えたり、論理的な創造じゃなく、バカみたいな発想や笑えるような想像を。意味の無い想像が活力を与えて、自分自身を、そして周りさえも楽しくすることができるのだと考えると、確実にそうすべきだと思えてくる。
終盤での「無知と随従こそ人の魂を殺す」というセリフこそが端的にこの映画を表していると思っていて、人が知っていると思っていること、信じているもの、起きていることは実は一部しか知らない、もしくはそれ自体が作為的に仕組まれたものかもしれないということを少しでも思うことが必要なんじゃないか。
扉を開けた時に見えたラストをどう観るか。自分自身の扉も解放せねばと思うほどに、色々と気づき多き作品でした。