全世界賛否両論、カルトか?傑作か?映画『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』予告編
「未来世紀ブラジル」の鬼才テリー・ギリアムが映画化を試みるも、そのたびに製作中止などの憂き目に遭い、幾度も頓挫してきた企画で、構想から30年を経て完成にこぎつけた、ギリアム念願の一作。
自らをドン・キホーテと信じる老人と若手映画監督の奇妙な旅路を描く。
仕事への情熱を失っていた若手CM監督のトビーはスペインの田舎での撮影中、謎めいた男からDVDを渡される。
それはトビーが10年前の学生時代に監督し、賞にも輝いた「ドン・キホーテを殺した男」だった。映画の舞台となった村が近くにあることを知ったトビーは、現地を訪れるが、ドン・キホーテを演じた靴職人の老人ハビエルが自分を本物の騎士だと信じ込むなど、村の人々はトビーの映画のせいですっかり変わり果てていた。
トビーをドン・キホーテの忠実な従者サンチョだと思い込んだハビエルは、トビーを無理やり連れ出し、冒険の旅へ出るが……。
自らをドン・キホーテと思い込む老人ハビエルを「2人のローマ教皇」のジョナサン・プライス、トビー役を「スター・ウォーズ」シリーズのカイロ・レン役で知られるアダム・ドライバーが演じた。
相変わらず意味が分からない。
映画を観れば見るほど、理解する力であったり、フォーマットであったりといった知識的素養が意図せず入り込んでしまう。
こういう作品を観ると『理解できない良さ』みたいなものを再認識させてくれるし、直接的、感覚的に問うてくる側面を強制的に受けさせられるところが良かったりする。
純粋に出てくる演者の演技であったり、美術、音楽、ロケーション、そういった映画自体に集中できることも、奇妙な世界に入り込めることも映画ならでは。
本作で描かれるドンキホーテという存在自体がそうなんだろうけど、虚構と現実の区別がつかなくなるということは果たしておかしなことなのか。
誰しも少しの虚構を見るものだし、現実と向き合わないことだってある。虚構のような現実を見ることもあるし、現実が虚構のように見えることだってある。
現に映画自体が虚構なわけで、その線引きすら意味を成しているとは思えなかったりもする。
本作を観て、クスッと笑ってしまったり、おいおい冗談だろと思い、登場するキャラクターに共感していく感覚はある種独特で、貴重な体験なのかもしれない。
観ていて最後に感じたのがとにかく『馬鹿にしないことの重要さ』。
不思議と感情移入していくのって本気で馬鹿な奴なんですよね。
馬鹿というと聞こえは悪いかもしれないけど、頭の良さでは無く、信念というか真剣に何かに向き合える人だと思っていて、そういう意味で本作に出てくるキャラクターたちはみんな馬鹿。
でもそれを馬鹿にする人、やけに静観する人が出てきた時に、そちらを応援したいとは思えない。それこそが馬鹿を愛している証拠だと思っていて、故に本作の様な馬鹿げた作品は凄いと思う。
映画的に面白いかとか、プロットがどうだとかはあるかと思うけど、体験としての重要性はかなり貴重だと思う。
何かを理解したと思って斜に構えた時点ですでに本質は見誤っている。
久々に心地良いカオスでした。