破壊と創造の振り子構造を確信した。
「カタストロフと美術のちから展」
丁度タイミング的にこういったことを最近考えていたので非常に楽しめました。
で挙げたような振り子構造。今展示では破壊と創造によるもの。そういった矛盾に満ちた作品や理屈では説明できないことなどを感じさせられた展示でした。
気になった作品をいくつか。
ホァン・ハイシン「誕生日の危機のスタディー」
誕生日という祝い事において、危機はどこにあるのか。危機が喜劇的に見えるあたりに妙な感覚を覚えるし、日常の狂気性みたいなものが炙り出されている気がしてぞっとした。
ヘルムット・スタラーツ「つねに、もっと」
何を描いているのか以上に、作品の存在感と異質さ、そして何よりこの絵の中に動物の血液が使われているという点に驚きを覚えた。
ミリアム・カーン「原子爆弾」
不覚にも原子爆弾という悪しきものに対して美しいと思ってしまう。矛盾しているようでいて普段から確実に潜在している真実。物の受け取り方は受け手とその時の状況で変わるという狂気的感覚に、怖さと複雑な心境が混在していた。個人的にいちアート作品として純粋に一番綺麗だと感じた作品でした。
平川恒太「ブラックカラータイマー」
これ全部電波時計なんですけど、黒く塗りつぶし、原発事故収束に従事した人を書いたもの。刻む針の音が心音とシンクロし、見えるようで見えない、それでも目を凝らし、角度を変えると見える事故というものの事実を垣間見た。
アイザック・ジュリアン「プレイタイム」
64分に及ぶ映像作品ながら観入ってしまいました。そしてほとんどの人が同じような状況で。今の時代を象徴しているような内容で、資本主義と言いながらその資本はどこにあるのか、幸福と貧困、生活と生きることとは。ある種ゲームの様な世界で何を指針に生きていくことが必要なのかを問われた気がします。
Chim↑Pom「REAL TIMES」
原発事故という最悪の事態に際し、危険を冒してその現場を目指し旗を掲げる様子はさながら宇宙や見果てぬ土地に到達した、冒険の記録なんじゃないかと錯覚してしまうほど。その違和感を感じながらも呆然と観てしまった。
序盤で、「情報は常に二次的であって恣意的なものになりがちだ」的なことが書かれていたが、それらをアートに昇華するということは三次的であって、フィルターを通せば通すほど、リアリティからはかけ離れていくんだと感じた。人伝で物事を聞くとちょっとずつ歪んでいくように。
同時に個人にとって惨事的な事が起きた場合はいつでも、マクロがミクロを凌駕し、俯瞰した視点で呆然と見るしかないんだろうなと思った。
そこから徐々にその状況を理解し、ミクロの視点で物事を認識していく。面白いのがそういった惨事的な状況ではそれが自然とできるのに、日常ではできないところが笑える現象だと思う。
単純に嫌なことが起きればその全体像だけを見て判断し、その原因や問題を見ようともしない。それどころか感情的になり、負のループに陥るのがおちな気がする。
廃墟に惹かれる理由も何となくわかった気がして、とにかく色々と面白い展示でした。