『フランケンシュタイン』

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「シェイプ・オブ・ウォーター」「パンズ・ラビリンス」で知られるメキシコの鬼才ギレルモ・デル・トロが、19世紀イギリスの作家メアリー・シェリーが生み出し、後世の多くの創作物に影響を与えたゴシック小説「フランケンシュタイン」を映画化。
己の欲望に駆られたヴィクター・フランケンシュタインは、新たな生命の創造という挑戦に乗り出す。そして、その果てに誕生した「怪物」の存在が、人間とは何か、そして真のモンスターとは何かを問いかけることとなる。
フランケンシュタイン役は「スター・ウォーズ」シリーズや「DUNE デューン 砂の惑星」のオスカー・アイザック。怪物役を「プリシラ」「Saltburn」のジェイコブ・エルロディが勤める。そのほか、「X エックス」のミア・ゴス、「ジャンゴ 繋がれざる者」「イングロリアス・バスターズ」のクリストフ・ワルツ、「西部戦線異状なし」のフェリックス・カメラーらが共演。デル・トロが長年にわたり映像化を熱望してきた企画で、自ら製作・脚本も担当。撮影を「シェイプ・オブ・ウォーター」「ナイトメア・アリー」のダン・ローストセン、音楽を「シェイプ・オブ・ウォーター」のアレクサンドル・デスプラが手がけた。2025年・第82回ベネチア国際映画祭コンペティション部門出品。Netflixで2025年11月7日から配信。それに先立つ10月24日から一部劇場で公開。
クラシック作品ががなぜクラシカルたるかの一端を見せられたような。
フランケンシュタインといえば名は知れども、具体的なストーリーは知らないという人がほとんどなのではないでしょうか。
私自身もその一人で、フランケンシュタインという名前が実は博士の名前であり、俗に言うフランケンシュタインはその博士が作り出した怪物程度にしか知らないといったところ。
ざっくりフランケンシュタインとは。
メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』は、野心的な科学者ヴィクター・フランケンシュタインが、倫理的な限界を超えて生命創造を試み、成功した瞬間にその創造物(怪物)の醜悪さに恐れをなして即座に放棄することから始まる悲劇です。
物語の核心と教訓
この作品は、創造主に見捨てられた被造物の悲劇と、科学者の傲慢と無責任がもたらす破滅を描いています。
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創造主(ヴィクター)の罪: ヴィクターの最大の失敗は、創造の成功ではなく、自らの行為の結果に対する責任を放棄し、目を背けた点にあります。彼は、愛と指導を必要としていた怪物を拒絶しました。
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被造物(怪物)の悲劇: 怪物自身は、当初純粋な心を持っていましたが、世界からその醜い外見ゆえに徹底的に拒絶され、孤独と憎悪を募らせます。その結果、彼は創造主への復讐として、ヴィクターの愛する人々を次々と殺害する悪へと転落します。
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結末: 創造主と被造物は、互いを追跡し合い、最終的に極地で両者とも命を落とします。これは、無責任な創造は、必ず創造主自身を滅ぼすという冷酷な真実を示しています。
デル・トロが手掛けるのであればということもあり、鑑賞したのですが、思った以上に良作でして。
ネットフリックスでの公開もあるものの、やはりデル・トロ、映画館で観る贅沢さを存分に感じさせる画面作り。
絢爛さとグロテスクさ、容赦の無い寓話的なる世界観が惜しげもないデルトロワールドとして良く表現されている。
オープニングの氷上から始まるシーンからして、冷え冷えとした荒涼たる自然美が印象的。そこからの爆発、炎上といったダイナミックな演出、火と水といった対比構造に始まり、寓話性と現実が程よくブレンドされた世界。
「あぁ、映画だな」と純粋に思える世界への誘いにスッと導かれる。
時系列を組み替えた構成というのも良く効いていて、パート分けされた章立ても絵本のような感覚を受ける。
この辺の寓話ならざるお話の展開はデル・トロの十八番であり、神秘的な森に迷い込むような錯覚が心地良い。
その後、フランケンシュタイン博士がなぜこうした人物像になり、怪物を産み出したのかというパートとなり、博士、怪物とそれぞれの視点から語られていく。
物語の骨格が普遍であるため、今観ても、古びない。何なら現代であればAiやロボットの勃興、それによる負の側面から見ることも出来るかもしれない。
ちなみにフランケンシュタインがどういうテーマ性を内包しているかというと。
「人間の傲慢」=命を操ろうとする科学の危うさ
「創造主と被造物の関係」=親と子、神と人間のような構図
「孤独と拒絶」=愛されない存在の苦しみ
という、非常に人間的なドラマが核にあります。
医療や技術革新などで、人間が扱える事柄が増え、コントロール下におけることが増えていく中、どこまでそうした行為が行われていいものなのか。
難しいテーマながら、デル・トロの独特の感性と手腕により見事に現代的寓話としての表現になっているのではないでしょうか。舞台はあくまでも19世紀の装いですが。
そしてオスカー・アイザック演じるヴィクター・フランケンシュタイン博士、この人間性の表現が素晴らしく、本当に何とも言えない悪さを秘めている。絶対的な悪では無いという絶妙な表現もあり、愛憎入り混じる感情表現を見事に演じている。
怪物を演じたジェイコブ・エロルディもどちらとも見られるような琴線の細さ、揺蕩うような視線や表情などが印象深く厚みを出していて繊細さが非常に良い。
個人的に驚いたのがミア・ゴス演じるエリザベスですね。
まず登場した瞬間、美しさに震え、醸し出すオーラが純然たる高貴さを身に纏っていることに驚く。
ライティングによる効果も多分にあるのでしょうが、それにしても存在感が抜群。![Netflix映画「フランケンシュタイン」より、ミア・ゴス演じるエリザベス - ギレルモ・デル・トロが「フランケンシュタイン」引っさげ7年ぶりに来日 [画像・動画ギャラリー 4/13] - 映画ナタリー](https://ogre.natalie.mu/media/news/eiga/2025/0820/Frankenstein_202508_11.jpg?imwidth=750&imdensity=1)
そして、役柄としての立ち位置、天真爛漫さと堅実さ、人に流されない確固たる信念を持っているような、強さが同居する立ち居振る舞い。
個人的に死の際における怪物との会話が非常に印象的で、「私は世界に居場所が無かった」というようなセリフにはエリザベスの世界を肯定しつつ、悪の根源が人であり、その心持でありというところに辟易していた様子が現れている。
だからこそ昆虫などの小さな生物、思考や意思が無くとも、本能的に安泰やまやかしの無い純粋性に引かれていたのかなと思うとその行動原理も頷ける。同様に怪物に対してもそのような振る舞いをしていたのがフィードバックされるという。
さらに愛についての語りが一番痺れた。
「断続的で瞬間的なもの、だけれどもそれを継続し、維持することこそが愛」というような発言には自分には無い、ある種の斜め上をいく発想の転換があり、鑑賞後にも余韻として響く重さがあり。
それにしてもデル・トロは映像を耽美的で余韻のある、膨らみをもった表現がピカイチですね。
映像というものを一つの枠組みに入れた時の空間の膨張と縮小、呼吸するように自然と膨らみ自然と萎む。
暖色のライティング、温かなカメラワークと寒色のそれらが見事に調和し、圧倒的ファンタジックな手触りを伴わせる。
ヴィクターとエリザベスが楽しそうにしていた時期のシーンは温かで、それこそ晴れやかなPOPさを纏った、歓喜に満ちた華々しさがそこにはあり、城での薄暗い地下などでは冷え冷えとした空気が満ち、感情を遮断するような張り詰めた理が存在する。
面白かったのがその城の地下から怪物が葉っぱを流すシーンにおいて、流れる先の外の世界へと通じる穴には温かで神秘的な光が入り込んでおり、この対比だけでも映像的にそこまでの橋渡しを可能にするのかと思ったほど。
温度感によるカラーリングの演出もデル・トロならではですし、映像耽美に富んだ物語、普遍的なる核心の問も相まり、一時でも現実からファンタジーの世界へ入れるというのは良いものだなと。
性善説、性悪説、どちらが正しいということでは無いという前置きをしたうえで、終盤での怪物とヴィクターとのやり取りを見ている最中、”悪は最初から存在しないのでは”ということをふと思う。
狼が羊を憎んでいないように、人も狼を憎んでいない、生きるために行為として暴力が介在するのであるだけで、それが目的では無い。
ヴィクターも唯一の心の拠り所だった母親が死に、高圧的だった父への当てつけとして、その父が到達できなかった死の克服という領域に足を踏み入れた。
結果、産み出した怪物(自分の子)に対し、父と同じような態度で接し、その善意から生まれた悪によって世界が構築されてしまう。
人の矛盾と、世界の共存という非常に普遍的な着地が見事な表現を持ってして映像化された世界。
画的なルックも美しく、優れた寓話性を表現しているので149分と少々長めではありますが、どっぷり世界に浸って観るには良い作品ではないでしょうか。
フランケンシュタインというモチーフ自体に過去作がいくつもあるのでそちらもタイミングをみて鑑賞したいところです。
では。