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探幽訪真:深く、自由に、偏りなく潜る

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18分で崩壊する世界、静かに燃え続ける“覚悟”──『ハウス・オブ・ダイナマイト』を観て

『ハウス・オブ・ダイナマイト』

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女性監督として初めてアカデミー監督賞を受賞した「ハート・ロッカー」や、アカデミー賞5部門にノミネートされた「ゼロ・ダーク・サーティ」で知られるキャスリン・ビグローが手がけたポリティカルスリラー。

ごくありふれた一日になるはずだったある日、出所不明の一発のミサイルが突然アメリカに向けて発射される。アメリカに壊滅的な打撃を与える可能性を秘めたそのミサイルは、誰が仕組み、どこから放たれたのか。ホワイトハウスをはじめとした米国政府は混乱に陥り、タイムリミットが迫る中で、どのように対処すべきか議論が巻き起こる。

「デトロイト」以来8年ぶりとなるキャスリン・ビグロー監督作。イドリス・エルバ、レベッカ・ファーガソンを筆頭に、ガブリエル・バッソ、ジャレッド・ハリス、トレイシー・レッツ、アンソニー・ラモス、モーゼス・イングラム、ジョナ・ハウアー=キング、グレタ・リー、ジェイソン・クラークら豪華キャストが集結した。脚本は「ジャッキー ファーストレディ 最後の使命」やNetflixドラマ「ゼロデイ」を手がけたノア・オッペンハイム。撮影は「ハート・ロッカー」「デトロイト」のバリー・アクロイド、音楽は「西部戦線異常なし」「教皇選挙」のフォルカー・ベルテルマンが担当。2025年・第82回ベネチア国際映画祭コンペティション部門出品。Netflixで2025年10月24日から配信。それに先立つ10月10日から一部劇場で公開。

本番は唐突に訪れる。

そんなことが頭をよぎりつつ、着弾までの18分間という極めて短い時間内での様々な人物の視点から描かれる物語。

言われずともわかってはいるが、実際に危機が訪れる時というのは本当に唐突かつ、それまでに残された時間というのもまちまちだということを身を持って知らされる。

スリリングな視点と、カットの不安定さ、手持ちを含めての緊迫感がそれぞれの視点から観られるわけですが、そのヒリヒリ感が半端じゃない。

いつも通りの日常を送り、その後も日常が繰り返されると疑わないのが当然であって、その映像との対比が更に高低差を生み、現実が揺らがされる。

このような事態に遭遇した各々の思考や対応というのもリアリティがあり、原因を突き止めようとするものもいれば、ジョークやミスと捉える人物もいる。かと思えば行動や事実にのみ着目し、その行為にどう対処するかとクールに捉えるものもいる。

共通するのは自分の身の回りの人物たちに対する”気遣い”というところであり、そこには絶対的な別格さが存在する。ずるいとか卑怯だとかはさておき、真にこういう事態の場合はそうなるのだということを思い知らされる。

積み上げた経験や知識、お金、地位、名誉、生きがい、そうした人生におけるあらゆるものを巻き込みながら、本当に重要なもの、自分が必要としている”価値観”に対して否応なく向き合わされる。

天災や事故などではなく、人によってこうした状況が意図的に作り出せてしまう世の中という不条理さを痛感するとともに、旧来の戦とも異なる、一瞬で世界がひっくり返る現実というものを目の当たりにした時、本当にどういう世界になってしまったのか。

これからその様相というのは一層強まるであろうことは確かだろうし、技術の革新により加速度的にスケールの違う進化や変化を伴うのは間違いない。

人の本質とは、人生の本質とは、そんな根幹を揺るがされるような新世界を見せられた気がした。

役者陣の演技力も迫真に迫っており、リドリス・エルバ演じる大統領も一人の人間でしかなく、揺らぎの伴った人物描写というのは見事でした。レベッカ・ファーガソン演じる大佐は妻として、母として、大佐としての覚悟を伴った視線というのは痺れましたし、その気概が演技として表出していたのも印象深い。

その他の人物もそれぞれの人間味と仕事における役職の立場、葛藤する心理描写の浮き沈みが状況の展開と並行しグラグラ揺らぐ。

本作を観ていて確信的に頭に漂ったのが”責任ある立場には真の器が問われる”ということ。

一切を抜きに、ただその人の人となり、見せかけや偽善、損得勘定では片付けられない人間性無くして、その立場にいるべきではないと。

社会的に評価され、如何に高貴なオーラを纏おうとも、中身がどうなのか、表面上のそれらとは全く別の価値判断で計った時、どういう人間性が出てくるのか。

別段偉大な人物になりたいという願望は無いが、失望させるような人物にはなりたくない。そう思わずにはいられない、今ならではの作品をよくぞ描いたなと思わされる。

『ハートブルー』以降、好きな監督ではあるが、現実を切り取るような鋭利な視点というのはますますその強度を高めているかもしれない。

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非常に現代的なテーマであり、現実に起きうる、最中にありつつ、その影響や度合いを理解していない人々にとっては良薬になるような素晴らしい作品でした。

ネットフリックスオリジナルなので一部の映画館でしかやっていないようですが、観られる方は是非映画館で。

では。

『アーセナルvsアトレティコ・マドリード』―プレミア強度が戦術を凌駕した夜、アーセナルは“本物”を証明した〜UEFA Champions League, Round 3〜』

『アーセナルvsアトレティコ・マドリード〜UEFA Champions League, Round 3〜』Viktor Gyokeres makes Arsenal 'much better' as drought ends - Mikel Arteta  - BBC Sport

2ライスタイミングええな
8ティンバー対応良き
25スケリー、ティンバーゴリゴリだな
27ギョケ今の入りは良い
29ティンバー今日キレある
32ギョケのこういうプレーは上手い
35スビキレとるな

52スビ絶妙につき
63スケリーこういう良さある
67スビのパスよ
92ヌマネルなぁ。オンザはさすが

結果的に圧倒的。

こういう他リーグの強者と当たるといよいよかと思うところなわけですが、この試合でもそれはそれで。

まずスタメン。

スケリーくらいですかね。最近のスタメンと異なるところは。

始まってみればわりと危機的状況も見られず、4-4-2でしっかり引いているアトレティコの後ろが重かったですね。

テンポ良く抜け出す場面も何度か見られましたが、とはいえアーセナルの守備は固し。

序盤こそCB不安定さが何故か垣間見え、てんやわんやのいつもらしからぬシーンも。

あれは何だったんでしょうか。緊張なのか、CLの魔なのか。

前半はお互い決定打的なものも無く、様子見なのか、予想通り膠着の様相。

変わって後半。

展開は同じに見えたのですが、ライスからの完璧なFKからのガブ。

あの弾道もさすがですが、ガブのマークが弱かった。プレミア勢からすると彼のマークを緩めるとどういう結末が待っているか、わかりそうなものですが、それもまたCL。

完璧with完璧=決定的。

その後も「どうなってるのよ」というほどのライスっぷりで攻守にわたり貢献。

とりわけパスがエグかったですね。あのトランジションとフィジカルでなぜここまで気が利いたプレーが出来るのか。フルタイムで。

そしてガブの恐ろしさを他リーグ勢にも知らしめる結果になったのではないでしょうか。

守備はもちろんのこと、攻撃時の存在感と決定力。DFの誰でも出来るものではないですよ。

スビとティンバーもいつも通り最高のパフォーマンスで、彼らはこれでアベレージというのが恐ろしいくらい。

でも、実際に毎試合これくらいのことはやってくれるので、普段当たらないチームには脅威に見えたことでしょう。

マルティネッリも前半はほぼ消えていましたが、後半はよく走り、よく守り、よく仕掛け。

いつもの変わらぬ献身性で終盤までさすが一騎当千といえばの奮迅ぶりは健在でした。

得点シーンもアンリよろしくな、完璧なコース。

久々に気持の良いオンプレーでのゴールでした。

スケリーも久々フルで見ましたが、良い点は素晴らしい。

守備面での不安と切り替えの部分で少々気になるところはありましたが、攻撃時のダイナミックさと言うかパワフルさはティンバー同様逞しい。

ティンバーとは守備強度のところ含め、年齢的な経験や元々の中盤特性から劣るところはありますが、あの年齢でここまで肝が座っているのは特筆すべき点ですし、今後アルテタのもと修練を重ねれば賢く成長しそうなので今はまだ温かく見守っていきましょう。

なぜならこんなキャリーは普通の心臓と技術なら出来ないはずですので。

そんなティンバーはサカとの連携もいつも以上に激しく、自身のタフネスさを存分に生かした俊敏なキレも相まっての堂々たる奮迅っぷり。

プレミア強度に一層の磨きをかけ、アトレティコ勢をかなり苦しめていたのではないでしょうか。

そしてめでたかったのはギョケ。

得点不足と言われていたその得点を2点も決め、83分間、見事に走り、奮闘した。

前線にいることで今までのFW以上に脅威になれ、存在としての恐怖がひしひしと伝わってくるようなパワフルさ。

ボールを持った時の勢いや力強さが違うんですよね。アグレッシブに狙ってきますし。

意外にも色々と顔を出して、それでいて最後はボックス内に収まるという生粋のCFさも魅力。

ゴールこそ、2発ともギョケらしさの出たぶち込みでは無かったものの、それでも得点は得点なので、自身を付けてリーグでも量産してほしいものです。

いずれにせよアトレティコ相手だったので、もう少し塩試合になるかと思ったものの、全体としてアトレティコ守備の遅さとスペースを埋める緩慢さがあった試合だったので、今のアーセナルであればそこを突ける役者陣が揃っているということでしょうか。

それにしてもCLのこうした試合は面白い。

では。

“すべては繋がっている”──『マグノリア』が映す不条理と救済のメタファー

『マグノリア』

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死の床で息絶えんとするテレビの大物プロデューサー、彼が昔捨てた息子、プロデューサーの若い妻、看護人、癌を宣告されたテレビのクイズ番組の司会者、彼を憎む娘、彼女に一目惚れする警官、番組でおなじみの天才少年、かつての天才少年……。

ロサンゼルス、マグノリア・ストリート周辺に住む、一見何の繋がりもない12人が、不思議な糸に操られて大きな一つの物語に結び付けられていく。

そして……“それ”は、起こる!

ポール・トーマス・アンダーソン監督(以下PTS)の長編にしてある種の到達点とも言える群像劇。

1999年に製作され、187分という3時間越えの本作は当時の私には長く感じた。

その後、PTS作品が公開されるタイミングで何度か観返していたわけですが、徐々に感覚が変わっていくという。

群像劇であり、人間にフォーカスしたような、むしろそれだけとも言える物語の如実性。

それでいて全然集中力が切れず、なんなら前のめりで観てしまうというところに映画上手男ことPTSの手腕が光る。映画としての強度が高いのでしょう。

まずタイトルにもなっているマグノリアについて。

マグノリア:

  1. 植物としての意味
    • モクレン科の常緑または落葉高木の総称。
    • 日本語では一般的に「モクレン」や「タイサンボク」などを指す。
    • 白や淡いピンクの大きな花を咲かせ、甘い香りが特徴。
  2. 象徴的な意味
    • 花言葉:気高さ、威厳、崇高な美、自然への愛など。
    • 西洋では「純潔」「忍耐」「壮麗さ」の象徴とされることも多い。

監督自身はインタビューで「タイトルはただ美しい響きだから選んだ」と語っていますが、フィーリングと潜在的思考は意外にもリンクするもの。

「気高さ」「愛」「崇高な美」というところは作品自体の内容とも強くシンクロする印象を感じてしまう。

本作の面白さというのはいくつかあると思うのですが、導入として、映像の美しさ、繋ぎの巧み、画として見られる流麗さというのが突出している。

画面内に起きること、そこで流れる音楽やカメラワーク、語られている事柄しても構図にしても。

とにかく映像として見られるそれら自体が極上の体験となっており、傾向耽美なルックに痺れる。

音楽との親和性も高く、エイミー・マンの楽曲が印象深い。

オープニングで流れる「One」のカバーからして素晴らしい楽曲と映像の重なりだなと思わされるところですし、他の楽曲も映像との共鳴に圧倒される。

これは是非一聴いただきたい。

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正直、相当な人数の浅くない群像劇が繰り広げられることもあり、初見で諸々を理解しるのは極めて難しいところではあると思うのですが、映像の重層感でもって画的に観れてしまう魅力があり、ある種の不思議な寓話的世界観に引き込まれる。

この点は大きいでしょうね。

一人の人生にしろそれぞれの重層性があり、その集積として、他者との重なりが乗じられる。

構造の複雑さを表現したような、映像としての多重構造性が映像として示されることにより、幸福な瞬間を付与してくれるという。

そしてその群像劇を繰り広げる役者陣の素晴らしさ。

脚本ベースの会話が主となるのは勿論のこと、それに肉付けされる強固な演技力、存在感。

ざっとでこれだけの役者陣が。

  • アール・パートリッジ(ジェイソン・ロバーズ)…余命わずかなTVプロデューサー

  • フィル・パーマー(フィリップ・シーモア・ホフマン)…彼の世話をする看護師

  • リンダ・パートリッジ(ジュリアン・ムーア)…アールの妻

  • フランク・T・J・マッキー(トム・クルーズ)…アールの息子で自己啓発セミナーのカリスマ

  • ジミー・ゲイター(フィリップ・ベイカー・ホール)…TVクイズ番組の司会者、病を抱えている

  • ローズ・ゲイター(メローラ・ウォルターズ)…ジミーの疎遠な娘

  • クローディア・ウィルソン・ゲイター(メローラ・ウォルターズ)…ジミーの娘でドラッグ中毒者

  • ジム・カリング刑事(ジョン・C・ライリー)…クローディアと関わる警官

  • スタンリー・スペクター(ジェレミー・ブラックマン)…クイズ番組に出場する天才少年

  • ドニー・スミス(ウィリアム・H・メイシー)…かつてクイズ番組で有名だった元天才少年

とにかく、全員良いんですよ。

それぞれの個性が立っているし、バックボーンが見えるというか、人となりの表現が染み入るというか。緻密に練られた脚本が演者により強度を増す。

メタファーの構造もさすがという所があり、とくに天気の表現は終盤でもとんでも無い形で生きてくる。

それぞれの感情や内情を表し、かつ舞台装置としても機能する。

要するに”偶然が連続して起こり、それが必然ともいえる形で起こる”ということ。

天気自体、コントロールできず、つまりは偶然。にも関わらず、人は天気予報等の知るすべを用い、ある種の必然性を得ようとする行為を試みる。

偶然性に法則を見出し、必然的なコントローラブルな支配に置きたがるということですよね。

ですが現実は想定より奇なり。

頂点極まれりのラスト「カエルの雨」というのは旧約聖書のエピソードを連想させる奇跡的な演出として起こる。

と同時に、そのシーンで気付かされるのが、空は全世界繋がっており、群像劇に登場する人物たちの世界もまた繋がっているということ。

つまりは個々人としては歯車の形で世界が廻っているが、全体で見るとそれが合わさり必然に近い形で一つの形に集約していく。

人生に置き換えると、結局人はそれぞれの人生を歩むわけですが、結局死地において思う所、感じることは似通ったものであり、それはどんな道を辿っても同様になり得る。

そう考えると作中でアールが「どんなに好き勝手生きても結局人は死ぬ」的なことを言っていた気がするのですが、これも言い得て妙。

どうしたって後悔の無い生き方など存在しないのかもしれない。

偶然をどれだけ重ね、必然に近づけようとも、それはまやかしであり希望であり、叶うことはあり得ない。

不可逆性感じさせるようなセリフもそうで「我々は過去を乗り越えたかもしれないが、過去は我々を乗り越えていない」というのもまた重要なファクターかと。

”偶然から必然”、”人生の不可逆性”、物事を言語により理解しようとしたとて、それはその程度の範疇にしか成り得ない。

カエルの雨を見た時、結局はあらゆるものを超越し、”どんなことでも起きうる”という世界の不可思議、不条理さを抱かずにはいられないよなと。

映画における映像のルック、メタファーによる人生の示唆。

尊さを持って儚いと知る、PTSだからこそ撮れる映像の素晴らしさというのは新作公開と共に、改めて再確認したところでもありましたので。

こうした稀代の監督をリアルタイムで堪能できるのもまた偶然。

では。

マグノリア(字幕版)

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『砂の女』──「反復」と「希望」が同居する、安部公房の不条理の底で

『砂の女』

昆虫採集で砂丘を訪れた教師の「男」が、集落に伝わる風習によって砂穴の底にある家に閉じ込められる。その家には一人の「女」が住んでおり、男は女とともに、絶えず流れ込む砂を掻き出し続ける奇妙な共同生活を強いられる。

荒唐無稽にして、あり得なくもない。寓話のような話にも見える独特な世界観の構築が素晴らしく、心に残る。

砂というモチーフと重ねられる人間の根源的な問いの輪唱。

主人公である男は学校の教師をしており、特段仕事にやり甲斐も感じず、プライベートでも昆虫の標本を勤しむような人柄であって、それも自分が生きてきた功績、足跡を残したいというような意義に寄る趣味としてそれがある、というような男の話。

そんな男がある仮定の下おとずれた砂地にて軟禁状態に遭うのですが、それだけのプロットにして十二分に楽しませてくれる物語性がある。

冒頭にある、「罰が無ければ、逃げる楽しみもない」という文言。

読み始めこそ不可思議に思うわけですが、最後には俄にその意味合いを色濃くし、ぼんやりと頭の片隅で漂うことになる。結局人生というのもまた同様のことなのかもしれないと。

この話では砂底での生活が全てという女と生活を共にし、それ以上でも以下でもない、生きているというよりは生かされているような奴隷じみた生活が全て、という主にこの女性と主人公の二人を中心に話が進む。

そうした生活の中で甘んじて、むしろ生きたいという意思を持って毎日砂掻きだけをして生活をするというのがどういった意味を持つのだろうか。

序盤こそ、男同様、「こんな生活に何の意味もないし生きている価値も無い」と思ってしまう自分が存在している。

ただ、不思議なもので、読んでいく中で見えてくる微細な変化や、その中での反復により「それでも良いのかもしれない」という思いも少々ながら芽生えてくる。

人の行動の8割は無意識に日常の繰り返しで動いているというのを何かで読んだことがある気がするのですが、無意識下でのルーティンというのは決して悪ではなく、それ以外の2割を充足させるためにはそれが必要だということもまた事実ということらしい。

実際、脳が全ての能力を発揮していないというのも同様で、人間の能力値として一定の縛りや限定というのは必要不可欠なのかもしれない。

形態を変え、一箇所に留まらない砂というものの流動性や連続性とある種の対比を見せる人間の一過性、反復性というもの。

時間軸で捉えると、流れ、永続して継続するという概念は同じながらその形態にフォーカスすると異なって見えてくる。

人は変化し、継続はするが、”反復”という事柄によって、継続が断続的に繰り返されるのではないかと。

女性と男性の人生観の違いも感じ取れ、この話に出てくる砂底の女は人生=家であるとする、身の回り数十メートル内の安泰や安定に固執する。

一方の男はその外、広い世界にこそ価値があり、可能性があると見出す。

根本的な考え方の違いが考えてみれば納得のいくところであり、性差の違いによる認識の相違が炙り出されてくるというのもまた面白い。

そして、その男が終盤に溜水装置に希望を見出すというのも腑に落ちるところであり、外の世界というのはあくまでも物理的な外でなくとも、概念的なアウトフレームにも見出すことが出来、ひいては人生における通常ラインから逸脱した希望というものでも生の意義を見出すことが出来るということ。

反復の怠惰は一方的にくだらないものではないし、希望も意義の見出し方によって生の活力を伴った営みに昇華される。

そのように考えると人生における究極的な目的”幸せ”というものもまた思っているような形をしていないのかもしれないなと思う側面に至る。

昭和よりも平成、平成よりも令和、時代が経てば立つほど科学技術も進歩し、生活水準の平均的な底上げというのは絶対的に増してきているはず。

であるにも関わらず旧来の人々と比較して現代の人々の方が幸せかと言われると全くその限りではなく、純粋に比較することは困難を極める。

その時々、それぞれの立場において、個々の幸せというのは無数にあるわけで、どのような環境においても全くの幸せが存在しないという人間もまたいないはずであるという視点を持てば、それこそ”今”という時に焦点を当てる以外、方法はないのかもしれない。

では。

19太陽が、砥いだ針の先
37形態を持たないということこそ
52水の不思議を、痛切に
64この発見は、はためく
177労働を越える道は
223死にぎわに、個性なんぞが
226夢も、絶望も、恥も、
235同じ図形の反復は
236孤独とは、幻を

可愛らしいモチーフと凶暴な性能──『モーリス・コール』Shivaモデルで体感する“速さと深み”

今回2本目のオーダー。

かねてより念願だったモーリス・コールによるサーフボード。

まずモーリスの説明を少々。

モーリス・コール(Maurice Cole)はオーストラリア出身のサーフボードシェイパーで、ハイパフォーマンスボードの革新者として有名。

  • 出自と背景
    1950年代生まれ、ヴィクトリア州トーキーを拠点に活動。自らもサーファーで、コンテスト経験も持つ。

  • 革新性
    1990年代初頭、トム・カレンやトム・キャロルら世界トップサーファーにボードを提供し、特に1991年のフランス・ホセゴー大会でカレンが彼のボードで優勝したことは有名。
    彼のデザインは「リバースVEE(逆V字ボトム)」など独創的なボトムコンケーブで知られる。

  • スタイルと評価
    速さ・安定感・タイトなターン性能を兼ね備え、パワーサーフィンに強い。プロサーファーだけでなく、一般サーファーからも「掴みやすいが奥が深い」と評される。

  • 思想面
    環境問題やサーフカルチャー全体へのメッセージも発しており、エコ素材や生産背景への意識が高いシェイパー。

要するに、モーリスコールは「実績と革新性を兼ね備えたオージーのレジェンドシェイパー」で、今もなお玄人サーファーの支持が厚い人物です。

サーフィンを始めた時から気になっていたのが彼の作るボードの玄人性とモチーフとなるこのマーク。

サーフボードと言えばカッコイイ、ストリートライクな、そんなイメージが先行しており、この可愛らしいモチーフとの対比が印象的でした。

持っている人を見かけ、「どこのボードなんだ」と思ったのは後にも先にもモーリスのみ。

そしてモーリスのことをショップのオーナーに聞いて一層好きになるという。

誰にでも合うボードでは無いがハマれば奥が深いというのは本当に痺れるワード。そういう玄人向けってホント弱いんですよ。

アンマッチさにも惹かれるというか。

しかも来日の際にしかオーダーが出来ない。

そしてある程度乗れるようになった昨年、遂にオーダーし今年の夏前に着弾。

サイズ自体は自分史上最短の5.7ハーフ。

尊敬するサーファーの乗っていたファイヤーパターンをモチーフに、ニュアンスカラーでのホワイトベースを生かしたカラーリング。

モデルはいくつか悩み、相談の末、シヴァというモデルに。

フィンボックスはfuturesで5box。

シングルorトライ+クアッドリアがおすすめとのことだったのでとりあえずトライ+クアッドリアに。

🔹 Shiva(シヴァ)

  • 位置づけ:小波〜頭サイズくらいまで幅広く対応するハイパフォーマンス・ショートボード。

  • ボトム形状:独自のリバースVEEをベースに、深いコンケーブで加速性を重視。

  • アウトライン:ノーズエリアにボリュームを残しつつ、テールは絞り気味。

  • 乗り味

    • 小波でも失速しにくく、スピードが出やすい。

    • レール to レールの切り返しがスムーズ。

    • 「走りながらタイトにリップへ行ける」感覚。

テイクオフ早めの小波~中波用。

新たなる相棒として重宝したいところです。

では。

コメディの皮を被った人間ドラマ『ルームロンダリング』に見る、“感情の置き場”の行方

『ルームロンダリング』

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池田エライザが訳あり物件を浄化するオカルト女子を演じたファンタジー。新たな映像クリエイターの発掘を目的としたコンペティション「TSUTAYA CREATORS’PROGRAM FILM2015」で準グランプリに輝いたオリジナルストーリーを映画化。

18歳で天涯孤独の身となってしまった八雲御子。そんな御子の前に叔父の雷土悟郎が現れ、住む場所とアルバイトを用意してくれることになった。そのアルバイトとは訳あり物件に住み、部屋の履歴を帳消しにする「ルームロンダリング」という仕事だった。このアルバイトを始めたことで、幽霊が見えるようになった御子は、幽霊と奇妙な共同生活を送り、彼らのお悩み解決に奔走させられる。そんな中で御子は失踪した母親と再会を果たすが……。

池田が主人公の御子役を、オダギリジョーが叔父の悟朗役を演じるほか、伊藤健太郎、渋川清彦、光宗薫らが出演。片桐健滋と梅本竜矢のオリジナル脚本を、片桐が初長編監督作としてメガホンをとった。

人の死、存在というものをコミカルかつシリアスな視点から描いた作品。

そもそも論として、コメディテイストという素地のある作品ですが、どうにもそれだけでは無いという部分もあり。

まず、主演の御子を演じた池田エライザ。当時22歳と若いながらも抜群の存在感とふわふわとした役柄が妙にハマり、内在する葛藤の一端を感じさせるような出で立ちや振る舞いが調和する。

そして相変わらず変人キャラがお似合いなオダギリジョー。

彼見たさで観出したわけですが、こういう胡散臭い役というのこそが彼の真骨頂。

そんな二人を中心に物語が進む。脇を固める俳優陣も癖有りで、それぞれの良さを生かした絶妙な配役。

特に渋川清彦演じるパンクロッカーは好きでしたね。軽薄そうでいて情熱的、人情溢れる人柄。それでいて生きづらさを感じていたような軽妙な幽霊味。

物語として、主人公である御子には幽霊が見えてしまい、会話ができるというとんでも設定で進行していくわけですが、この設定に違和感を感じつつも、すんなり入ってくるシュールさが興味深い。

幽霊の存在感と関わり合いが丁度良いんですよね。

御子の存在があればこそというのは大前提ですが、掛け合いのバランスが丁度良く、幽霊だからこそ務まってしまう部分もあるのかなと。

劇中で行われていることは違法ですし、起きていることにしても突拍子の無いことだらけ。

それでいて人間味というか、人間として生きるということがどういうことなのかを諭す、幽霊視点の介在が不思議と魅力的に映る。

自殺や他殺、事故死など、様々な死の形がある中、何を思い、何を考えるのか。

劇中で語られるそれらが真実とも思わないですし、誰もがあのようなキャラクターたちのようだとも思わない。

それでも死んだら終わり、ということは確かであって、誰しも認識はしているが、本当に実感するということはその時が来たらなのだろうと改めて認識させられる。

本作のように、死後会話が出来れば別でしょうが、それは現実では到底あり得ないこと。

だとするとやはり生きているうちにやれることをしなければと思わされもする。

果たしてそれは可能なのか、そしてどこまで後悔無く過ごすことが出来るのか。

一方で重要だと感じるのが”感情の置き場”について。

生前に生じる様々な感情の起伏。あの人が嫌いだとか、この人からこう言われたとか、僻み、妬み、嫉み。逆に喜びや笑いなどもそう。

悪い感情であれ、良い感情であれ、いずれ死ぬとするならば、その感情に後悔を持つようなことはしたくない。

これが一番難しいだろうなと思うわけです。

その”感情の置き場”に整理がついた時、それが行動に繋がり、結果として後悔は少なくなるかもしれない。

そう思わされたのは登場する死者たちのおかげであり、この作品から得られたところでもあり。

コメディであり、シリアス。タイトルからして限りなくブラックに近い皮を被った人間ドラマの混沌さよ。

良き魂よ、良き所に宿れ。

では。

ルームロンダリング

狭いピッチで試された『アーセナルvsフラム』――パス精度の低下は偶然か

『アーセナルvsフラム』

CKから3シーズンで37ゴール!アーセナルFW、フラム戦の決勝点に「最初数回はクソみたいなCKだったけど…」 | Goal.com 日本

5ライスよく見えてたし正確なフィード
9この局面で前向けるエゼ
15オフサイやけど手数と精度
20ティンバーの地味に上手いターン
22サリバ身のこなしがホント上手いわ
34狙えるなら打つカラフィ好きだわ
36形最高
43エゼの凄トラップ

48サカの受けてからの上手さ
53サカもコントロール異常
74ガブのビタ付きの見事さ
82ティンバーおもろいアイデア
93マルティのこの隙の無さね

代表ウィーク明けというのは意外な展開というのが起こりがちなわけですが、今回は一応免れるという。

そんなスタメンから。

個人的には4-2-3-1でエゼがトップ下のような感じに見えたのですが、まあいいでしょう。

フラムのホーム、クレーブンコテージは他のプレミアピッチに比べてサイズが小さいわけですが、この試合でもわりとそれを感じさせるような少々の窮屈さも。

🎯 サイズ情報

・クレーヴン・コテージのピッチ寸法として、100 m × 65 m(約109 yd × 71 yd)というデータがあります。 

・また、別のデータでは105 m × 68 m(=115 yd × 74 yd)と記載されているものもあります。 

・所属クラブ公式FAQページでは「100 × 65 メートル」と明記されています。 

✅ 普通と比べてどうか

・プレミアリーグ/トップクラスのスタジアムで多く見られる「標準的」寸法はおおよそ 105 m × 68 m(115 yd × 74 yd)あたりです。 
・つまり、100 × 65 mというのは、長さで約5 m、幅で約3 mほど小さいということになります。

・面積ベースで言えば、100 × 65 m=6,500 m²。標準的な105×68だと=7,140 m²。つまりおよそ約640 m²ほど小さい。 

特にサカが外側に張る際にその印象が強く、ティンバーとの連携などで前半などはいつも以上に狭いなという感覚。

あとはフラムの戦術が良かったですよね。

中盤を絞めてラインを引くことで中央への侵入が中々出来ない。出来ても狭いという。

↓はフラム。中央に寄ってますよね。

カスターニュとアンダーソンが守備的に固かったのもそうで、左からの崩しは中々苦戦していましたし、兎にも角にも固かった。

加えてアーセナル自体のパス精度が悪かった。

実際見てみると右がアーセナルなのですが、本数も100本以上普段より少なく、ファイナルサードでのパスも普段より7%程度低い。ロングボールも5%ほど低いというような感じで、ちょっとしたズレが多かった気もします。

個々で見るとサーモンはこういう時頼りになりますね。というかいつも通り爪痕を残す仕事をやってくれがちというもありますし、局面をオリジナリティで掻き乱してくれるという。

ゴールへの嗅覚、何よりシュートフィーリングが良い。

15分にあったカラフィオーリとの連携もオフサイドになってしまいましたが、決まってたらスーパーでしたからね。アシストもゴールも。

この試合では得点も決めており、そうした決定力もやはり魅力的。今シーズン、プレミアでは初ゴールですね。

ライスも相変わらず頼りになります。

攻守の起点になり、どちらにウェイトを置くかの判断も間違えない。ボールを奪われないというのもそうですし、存在による安心感が半端じゃない。

配球感覚も優れてますし、精度も高い。

ライスに関してはこの試合でもパスの質は非常に高いですし。

その意味ではサリバ、マガリャンの安定感も同様に高いのですが。彼らの安定感は本当にアーセナルの守備の基幹であり肝であり。

とはいえこの試合はサカ。

オンザボールでの技術力ですよね。

どれだけ狭いスペースでも、相手と距離が近くても何かしらアイデアで打破するという。

技術の裏付けが無ければ当然できないプレーですが、それでもちょっとレベルが違ってきている。

しれっと凄さが滲み出るんですよね。

惜しくもPKにならなかったあのシーンも、サカの凄さが存分に出てましたし、交代直後のケヴィンが対応出来てなかったですからね。

元アーセナルメンバー(スミスロウ、イウォビ、レノ)が多いのでちょっとした哀愁も感じつつ、勝てたのでまず代表明けの良き試合でした。

一抹の不安としては8試合でオープンプレイからの得点が5というのは少々寂しいものですが。その辺はギョケ頼む。

ちなみに少し前に出たワールドサッカーダイジェストのアーセナル特集、中々興味深い部分もあり良かったですよ。

では。