Blcrackreverse

Diggin LIFE 掘って掘って掘りまくれ!

Blcrackreverse

健康より旨さが勝つ!でも健康も『エレ片のポッ!』で知った『でん六 小袋ロカボナッツチョコ』

でん六 小袋ロカボナッツチョコ』

最近これがメチャクチャ美味くて。

きっかけはこのラジオ。「エレ片のポッ!」

エレ片のポッ!

エレ片のポッ!

  • TBS RADIO
  • コメディ
  • ¥0

podcasts.apple.com

こちらのラジオは以前から聴いているのですが、この中で紹介されていたこちらが異様に気になり、買ってみたところ、言われている通りメチャ美味しい。

小分けになっているので仕事中などの間食に良いんですよね。

毎日食べるというわけでは無いものの、小腹がすいたり、頭が疲れた時にこそ丁度良い。

ナッツベースなので、食べ応えもありますし、でん六がやっているだけ豆感があって美味いんですよ。なんせ豆のメーカーですからね。

ちょっとでん六について。

でん六の強み:豆メーカーとしての実力


創業以来、豆一筋の老舗(1947年創業、山形県発祥)

節分豆や甘納豆、バタピー、柿ピーなどで全国的に知られる

豆の選別・焙煎・味付けの技術が非常に高い

つまり、ロカボナッツチョコに使われているナッツ(アーモンド、くるみなど)も、

焙煎加減が絶妙

風味がしっかりしていて、チョコとのバランスも良い

 

 実際の口コミでも:
「甘さ控えめチョコの後味を、香ばしいナッツが引き締めてくれる」
「ナッツが新鮮でうまい。さすがでん六
といった声が多いです。

エレ片二人もそうですし、全員絶賛していたこともあり、自分でもこれは美味いと思えたチョコ。

毎日食べるにはコスパよくないですが、たまに食べるのに最高のチョイス。

ちなみに個人的に引っかかっていたノンシュガーチョコ、ロカボという部分に関してちょっと調べてみました。

正直ノンシュガーとかロカボって信じてないんですよね。副作用というか、反作用的な何かがある気がして、絶対健康に良いって存在しないと思っているんですよね。

じゃあなぜこれを推すかというと、これまたラジオでも言われていましたがそうしたことを差っ引いても”とにかく美味い”。

それに尽きる。

そして副次的に健康風な方が良いというのもあるじゃないですか。ただそれだけなんですけどね。

でん六 小袋ロカボナッツチョコ」は、**ロカボ(低糖質)かつ砂糖不使用(ノンシュガー)**をうたったチョコレート菓子で、健康志向の人には注目されやすい商品です。ただし、「健康的か?」については以下のポイントから判断できます。

 

 良い点(健康的な面)


1. 砂糖不使用(ノンシュガー)
血糖値を急激に上げにくい。

虫歯になりにくい。

糖質制限している人にも安心。

2. 低糖質(ロカボ)設計
1袋あたり糖質が5g以下(※製品によって変動)で、間食としてはかなり低め。

糖質オフダイエットや糖尿病予防・対策に適している。

3. ナッツ入り
食物繊維・良質な脂質・ビタミンEなどが含まれ、腹持ちもよい。

食後の血糖値上昇を抑える助けにも。

 

❗注意点(食べ方によっては不健康)


1. 甘味料の摂りすぎに注意
マルチトールやエリスリトールなどの糖アルコールが使われており、大量摂取するとお腹が緩くなることも。

「ノンシュガーだから安心」といって食べ過ぎるのは逆効果。

2. カロリーはそれなりにある
ナッツ+チョコで脂質が高め=少量でもカロリーは高い。

食べ過ぎると太るリスクあり。

 

 まとめ:健康的か?


1日1袋(15g前後)程度の適量なら、非常に健康的な間食
→特に「甘いものを控えたいけど少し食べたい」人に最適。

アマゾン限定だとおよそ70個入っており、1個当たり67円ほど。

少々高いなという印象はありますが、それでも店頭よりはお得ですね。

間食を満たし、頭もブースト、それでいて美味い。

では。


 


 

『ルノワール』が暴く大人の偽善と子供の純真──美しすぎる混沌

ルノワール

ポスター画像


www.youtube.com

長編初監督作「PLAN 75」が第75回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門でカメラドール(新人監督賞)の次点に選ばれるなど、国内外で高い評価を得た早川千絵監督の長編監督第2作。日本がバブル経済のただ中にあった1980年代後半の夏を舞台に、闘病中の父と、仕事に追われる母と暮らす11歳の少女フキの物語を描く。2025年・第78回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、早川監督にとってデビューから2作連続でのカンヌ映画祭出品となった。

1980年代後半。11歳の少女フキは、両親と3人で郊外の家に暮らしている。ときに大人たちを戸惑わせるほどの豊かな感受性を持つ彼女は、得意の想像力を膨らませながら、自由気ままに過ごしていた。そんなフキにとって、ときどき覗き見る大人の世界は、複雑な感情が絡み合い、どこか滑稽で刺激的だった。しかし、闘病中の父と、仕事に追われる母の間にはいつしか大きな溝が生まれていき、フキの日常も否応なしに揺らいでいく。

マイペースで想像力豊かなフキが空想にふけりながらも、周囲の大人たちの人生に触れていく様子を通して、人生のままならなさや人間関係の哀感を温かなまなざしとユーモアをもって描く。フキ役はオーディションで選出され、撮影時は役柄同様に11歳だった鈴木唯。フキの母・詩子を石田ひかり、父・圭司をリリー・フランキーが演じるほか、中島歩、河合優実、坂東龍汰らが顔をそろえた。

まず言えること。

ポスタービジュアルにあるような陽気さや明るさを期待していくと間違いなく叩き落される。

正直、これは食らいました。想像のはるか斜め上をいっていた。

でも、これが悪いという意味でもなく、なんなら鑑賞後にこのビジュアルを見るとまた違った感情を抱かされる。

なぜこのビジュアルにしたのか、それ自体が映画が内包する不可思議さと呼応する気もあるなと思ったり。

舞台となったのは1980年代。私自身が生まれた年代でもあり、その空気感、風景、感覚、どれもが懐かしくもあり、知らない側面もありといったノスタルジーを帯びた情景が広がる。

ちなみにこれは岐阜市で撮影したようで、その街並みに80年代の空気感を残している部分があるようで、そうした街並みがまだ存在することにも驚かされる。

物語としては11歳のフキという少女が世界との関わりの中であれやこれやを経験、体験してくわけですが、この11歳のフキ役を演じた鈴木唯さん。恐ろしく素晴らしい演技力でした。

撮影当時、実際に11歳だったとのことですが、それにしても11歳離れした役柄による制約の妙を良くあそこまで体現出来たなと。

あのような子が実際に11歳でもいるのかもしれませんが、作り込みで作るにはあまりに風変わりで、独特な空気を纏った存在。

そこの演技力だけでも見る価値十分。

とまあ細かいところから書いてしまいましたが、作品自体は混沌としており、何とも言えない空気が漂い続ける。

この”禍々しさ”が全編を通して、絶対的な支配力を持っており、不安というか、心をかき乱されるような、何とも言えない複雑な感情を抱かされる。

子供らしさや軽妙さが感じられるシーンでさえ、どこかしら不穏というか、重々しい空気が流れ、とにかくなんだか気が抜けない。

冒頭からしてその様子は表れており、暗い中でビデオを観るフキ、そしてゴミ捨て場での不穏さしかないあのシーンへ。

暗がりと対比されて見える外の明るい世界。

そのコントラストが印象的で、禍々しさが渦巻くのは子供から見れば興味深くもあり、不可思議で滑稽なものなのか。

終始フキの視点を中心に進んでいく中、彼女が抱いているのは日常における疑問と湧き出る興味関心のみ。

その純真さを通して見えてくる社会、大人という混沌さは、作品のような奇妙な世界として見えているのか。

序盤で問われる「人が死ぬとなぜ泣くのか」、あまりに唐突で答えの無い問いに対し、これに近しいような、当たり前として消化してしまっている問題にも向き合わされ続けていくことになる。

子供の頃って興味だけで全てが進んでいたし、他人の事、世界の事なんてこれっぽっちも頭に無かった。

あるとすればそれらが自分にかかわる場合においてのみであって、それ以外では考えることすらも皆無。

怖いもの知らずというのは知らないから怖いと思わないわけで、であるならば大人になるにつれ、怖さを知ったから思考が勝ってしまうのか。

では、思考し、頭でっかちになることで、賢く、柔軟に世渡りをすることが可能なのかと言われればそれもまた微妙で、確かに世渡り自体は上手くなるのかもしれないが、賢くなるわけでは無い。

なんならそのグロテスクさを隠しつつ、隠すからこそ、肥大化するそれらを温存し、別の方法で消化する術を学ぶ。

これがいわゆる映画内で大人たちが行うことで、奇妙で気持ち悪い、それでいて滑稽な様というのは観ていて気持ちの良いものでは無い。

作中に流れる楽曲のアンバランスさ。気品ある選曲というのもこの対比において見事に効果を発揮しており、よりいっそう気持ち悪さを掻き立てられる。

だからこそ、この空気感が全編に漂っているとすれば、納得しかない、良くできた構造だなとも思えてくる。

作品を観ていて、環境音などが大きかったりした居心地の悪さというのも、もしかしたらそういったところの影響を反映しての演出なのかもしれない。

そう思うと終始居心地の悪い、定まらない混沌さがあるような不思議な映画体験だった。

タイトルとしての「ルノワール」。これにも諸説あり、監督自身は以下のようにも答えている。

1. ルノワールと光の関係
ルノワール印象派の画家として、光の捉え方が非常に特徴的です。この映画も「曖昧な光の中でしか見えない真実」を描こうとしたと監督はインタビューで語っており、画家のルノワールとは直接関係なくとも「見ること/見えないこと」が作品テーマに重なっています。

 

2. “ルノワール”という言葉の響きの魅力
監督はあるインタビューで「言葉としての『ルノワール』の響きに惹かれた」とも述べており、日本語で話す中に突然フランス語的な柔らかくて異質な単語が混じる感覚を大事にしたとも。

これを見て、多角的な視点、そうした事柄を子供目線で見ることで見えてくるグロテスクな万華鏡に感じるのは納得のいくところでもある。

シンプルに大人ってなんであんなに取り繕って、しっかりとしたがり、それでいて実はエゲつないことをしているのでしょうか。

素直でいることや率直であることが必ずしも善ではないとも思いますが、それにしても偽善が蔓延し過ぎている。

混濁とした世の中で、何のために人と関わり、何のために生きるのかということを見失っている衒いすら抱かされる。

全てが目的と乖離し、逆転していくような世界になっていて、そのもどかしさが作品を通して滲み出てくるような気もする。

なぜ「人が死ぬとなぜ泣くのか」。

終盤でフキが涙を流し、寝ていたシーンを観て頭に浮かんだのは”最後のお別れだから”ということに尽きるのかもしれない。

泣く理由は人それぞれだけれども、突き詰めて泣く理由という意味で考えると正当に考えられる理由は”最後のお別れだから”というのが最もしっくりくる。

本当にもう会えない、いた時の思い出や、これからのことを思っても、もういない。

そう思うと自然と悲しさが溢れ、泣けてくる。

泣きたいから、泣こうとして泣くんじゃなく、ただ泣けてくる。

感情の核心を刺激されたように反応として流れる涙、あのフキのシーンにはそういった悲しみの反応が自然と感じられたのはとても印象的でした。

そして鑑賞後抱いた”拠る(よる)”という気持ちについて。

作品を通してある種の信仰や詐欺まがいのことも頻繁に出てくるわけですが、これも最後に自分の中で見事に繋がった。

フキの父親の死をもってそれが無意識的に繋がったわけですが、その父親は医学という知識を信じていた、母親はガンに効く薬を信じた(これは少し便宜的な部分もありますが)、中島歩演じる透は学問を信じた。

結局何かを信じたり、頼るということはすなわち人間にとっての不可欠な行為なのかもしれない。

それが何であれ、信仰の良し悪しはさておき、何も信じずには生き得ない。

逆説的な意味も含んでいると思っていて、河合優実演じる理子や坂東龍汰演じる薫などは信じたいから何かを見ないようにしている。

見ないことで何かを信じるということも結果としてまた信じているわけで、そう考えると可視性の有無に問わず、本質的に”拠る気持ち”というのは人間だれしも必ず抱くものなのかなと。

成長過程、大人になるにつれて出てくる感情だということを顕著に表しているのがあのお金持ち風の家族にあるものであって、子供はフキ同様なものの、親は囚われていく。

信じるものは救われるというのはあながち嘘では無いのかもしれない。

というか全体最適でない、自己最適においては確実に必要不可欠な要素であることは間違いなさそうだと。

ということを以てあのポスタービジュアルにあるあのシーンを観た時、思うところは”人生を謳歌せよ”という鼓舞。

愉しむために、良く生きるためにという本質的な生への問いをビジュアル化したあの光景は悲観的で混沌とした世界におけるある種の光として輝きを放っていたのかもしれない。

家で観るにはちと重い、なので映画館へ。

では。

『カミナリのYouTube』沼に落ちた|ドンキーコング音楽から始まるカルチャー探訪

最近異様にハマっているものがありまして、それが「カミナリのYouTubeチャンネル」。

カミナリの記録映像【公式】 - YouTube

www.youtube.com

きっかけとしてはドンキーコング、デヴィッド・ワイズによる音楽の作り込みが異常ということに関する諸々の動画だったわけですが、音楽、カルチャーに対する造詣が深く、それに加えて2人のテンポや波長が抜群に面白い。


www.youtube.com

ドンキーコングに関して言えば、確かによくよく聞くと秀逸な曲が多かったですよね。

当時はゲーム性にばかり目がいっていて(小学生だったこともあり)そこまで印象は薄かったのですが、今にして思えばかなりクオリティが高かったよなと。

ゲーム初期にあるような楽曲というのはいわゆるbitサウンドと呼ばれ、音数に限りがある中、どういった世界観、音楽観を作るのかというのを鑑みると、至極難しいものだったことでしょう。

ちなみにビットサウンドとは。

 ビットサウンド = 少ない音のデータで作られた、特徴的な電子音の音楽や効果音

なぜそんな音なの?
昔のゲーム機はデータ容量や処理能力が小さかったため、音もシンプルに作る必要があった。

その制限の中で、ピコピコした音を工夫して音楽にしていた。

どんな特徴?
電子音(シンセサイザーっぽい音)

繰り返しのメロディが多い

現代のゲームのようなリアルな音とは違うが、独特の味わいや懐かしさがある

例:
マリオのジャンプ音 →「ピョン!」

ドラクエの戦闘音楽 → 限られた音数で迫力を出している

SFCになると少し音質がよくなり、「ビットサウンド」と「サンプリング音(録音音)」が混ざるようになります。でも基本は、制限のある中で工夫して作られた電子音の音楽という点が共通です。

なのですが、その中から名曲や印象深い曲が多数生まれてきたというのもまた事実なわけで、個人的に思い返しても忘れられない楽曲が間々存在しているわけです。

それを笑いとカルチャーに変えて発信する二人の掛け合いが面白いのなんのって。

コントなどのネタやテレビなどでのそれを見たことは殆ど無かったものの、この企画から引き込まれ、今ではずぶずぶのハマりよう。

ゲーム実況というのも彼らがやるいわゆるレトロゲームという基軸も興味深く、SFC、プレステ、セガサターンなど。

説明書を途中で読んだり、謎を謎のままプレーしたりというところに、彼らの会話やひらめきのエッセンスを加えてのやり取りがお見事。

それ以外の企画に関しても馬鹿さ加減が絶妙に丁度良く、ネイバーフッドっぽい急須を探しに行ったり、ウィンドウズの初期インストールゲームの入ったPCを探しに行ったり、ビートメイクをしてみたり。

ゲーム実況に関しては別チャンネルでそれに特化したものもやっているわけですが、それもまた笑えるし、楽しめる。

この「かまいたちの夜」も名前しか知らなかった作品ですが、この二人の推理にかかればこうも面白く、愉しめる。

何よりこうしたサウンドノベル系のゲームって今でいうマーダーミステリーとかの先駆けだったのではという部分もありますよね。

しかもシナリオに 我孫子武丸さんが関わっていたというのも今知ると、「そりゃ良くできてるわ」と思うところでもあり。


www.youtube.com

ときめきメモリアルの解釈の仕方とゲームプレーの滑稽さと言ったら無かったですし、あの視点で進めていく面白さ、何より、旧来のような、生で誰かとゲームをし、冗談や攻略を共にしていく。

あの感じも堪らんのですわ。


www.youtube.com

ゲームが楽しいからゲームをするのでなく、ゲームを誰かとやって楽しくするというようなが逆説的遊び方。

受け身でなく主体的に。

当然、ゲームの面白さがあればこそ出来るものではありますが、それ以上に人と何かをする馬鹿馬鹿しさ、生々しさを呼び起こさせてくれ、メチャクチャハマっております。

本業のところでのお笑いというのも含め、ちょっと当分抜けられないかもしれません。

では。

『MONKEY』で出会った異質な一着|町田の古着屋で見つけたハンドメイドの魔力

これまた変な個体に出会ってしまった。

今回は町田にある「MONKEY」というお店。ここ数年、ちょいちょい伺っていた古着屋で、ここのセレクト、店の雰囲気も良いんですよね。

コンパクトながら見やすく、丁寧に商品が並んでいる印象があって。

そこで出会ったのがこちら。

見るからに雰囲気が違う。

サイズ一つとってもボックスシルエットで着丈は短め、それでいて身幅、肩線が広い。

素材もコットンと言ってしまえばそれまでなのですが、肉厚でザラっとした質感のそれ。粗目の編みで、ニットのようなテイストがあり、繊維のしっかりとした重みが物としての存在感を高めている。

袖口、丈の処理も切りっぱなしになっており、これもまたラフさと素材感の重厚さとのバランスが取れている。

裾に付いているこのマークもなんだか洋服とのバランスが良いんですよね。さりげなく、それでいて主張も少々で。

色も特徴的で、ピンクが色褪せたような染色、これは着古したからこその色味なのか、それとも加工なのか。

裏地を見ると色が違うことから、退色によるものなのかと思われるものの、それにしては生地の劣化が無い。

どうやら調べるとフランスにあるブランドによるもので、一つ一つ染色、加工によりこのような質感を作り出しているらしい。

いわゆるハンドメイド。

限定して作られており、大量生産出来ないという魅力を存分に纏ったような出で立ちから見てもこの感覚は間違っていなかった。

ビジュアルにあるように、ロンTなどを中にきてもさまになるし、夏場などはスラックスにビーチサンダルなどをあわせても面白そう。

リバーシブルでも着れるわけですね。

綺麗目なスタイルとハンドクラフト感のあるこのトップスを合わせれば、それだけで存在感は十分そうだ。

女性と異なり夏場は単調なコーディネートになりがちな中、物の特異性で違いを創出する。

まだまだ夏場のコーディネートは愉しめそうだ。

では。

エンツォ・フェラーリの“自由”とは?『フェラーリ』が問う人生の重さ

フェラーリ

ポスター画像


www.youtube.com

マイケル・マン監督がアダム・ドライバーを主演に迎え、イタリアの自動車メーカー・フェラーリ社の創業者エンツォ・フェラーリを描いたドラマ。ブロック・イェーツの著書「エンツォ・フェラーリ 跳ね馬の肖像」を原作に、私生活と会社経営で窮地に陥った59歳のエンツォが起死回生をかけて挑んだレースの真相を描く。

1957年。エンツォ・フェラーリは難病を抱えた息子ディーノを前年に亡くし、会社の共同経営社でもある妻ラウラとの関係は冷え切っていた。そんな中、エンツォは愛人リナとその息子ピエロとの二重生活を妻に知られてしまう。さらに会社は業績不振によって破産寸前に陥り、競合他社からの買収の危機に瀕していた。再起を誓ったエンツォは、イタリア全土1000マイルを縦断する過酷なロードレース「ミッレミリア」に挑む。

妻ラウラをペネロペ・クルス、愛人リナをシャイリーン・ウッドリーがそれぞれ演じた。2023年・第80回ベネチア国際映画祭コンペティション部門出品。

マイケル・マン監督らしい重厚かつハードボイルドな作り。

この監督の作品が観たい時というのは”男のロマン”その要素を感じたい時に観るわけですが、個人的には車映画というのも魅力的なわけでして、その意味で監督と作品の相性もすこぶる良い。

以前からやりたかった企画をようやくやれたという経緯があったようですが、その思い入れも感じるような作りが感じられ、端的に言って爽快さもロマンも無いというのが正直な印象。

あるのは事実と業に基づき、取り繕われた信念のみ。

冒頭から古びた映像に始まり、その後も何かありげな女性宅から幕を開ける。

手押しで車のエンジンをかけ、その後運転シーンに切り替わる。

手元と正面などのカットを挟み、相変わらずこうしたメカニカル、スキルフルな男が好きそうな技巧を感じつつ、自宅のシーンへ。

慌ただしい電話のやり取りがスリリングさを際立たせているのですが、冒頭から部屋の画作りに関して異様に雰囲気があり、木の質感、しっとりとした色味が非常に美しくシルキーさに惚れ惚れしてしまう。

この画作りの部分、終始安定してトーンが重厚で色のふくよかさが際立っているわけですが、撮影はエリック・メッサーシュミットだったんですね。

フィンチャー組の方で、「そりゃこの画作りには最適な人選だわ」と唸らされる。

暗部の表現、しっとりとしたカラーグレーディング。

本作ではそれにプラスして、フェラーリのひと際印象的な深みある赤色表現に目を奪われる。

フェラーリって独特な血のような赤色をしているなという印象があって、その独特さを映画の画作りと上手くマッシュアップし、通常よりも濃厚で艶感のある赤さが際立つ。

この唯一無二感、今にして構築されているブランドの歴史と重みというのをその画作りで過去に重ね合わせる。

表情のクローズも要所に挿入されており、それによる人間味の掬い取り、感情や気持ちの吐露というものも重層的に重なっていく作りも面白い。

話はそこからは基本的に人間模様を中心に話が進んでいく。

この人間模様もトーンが全体的に落ち着いていることもあってか、濃密なドラマに感じてとにかく終始見ごたえがあり、心地が良い。

では終始平坦な物語なのかというと全然そんなことは無く、マイケル・マンらしい”音へのこだわり”が良い起爆剤となる。

エンジン音を中心とした音の切れ味鋭く、腹に響くような低音の鳴りが過剰過ぎず心地良い。

銃撃戦もそうですが、こういう男の趣味的なものに対しての造詣の深さが異常なんですよ。

徹底的にこだわっているからこそ滲み出る表現の際立ち。

そんな車のメカニカルな部分が最も光るのはミッレミリアのレース内での車のやり取りは非常に見もの。

細部のディティール、レース描写、ピットでのやり取りなど、カッコイイが詰まっているのは間違いなくこの箇所。

ここだけでも十二分にアガるところがあり、純粋に車というメカ、レースという極みに否応なく引き込まれてしまう。

ちなみに、この作品では十八番の銃撃戦は無いものの(発砲はあるが)、エンジンにおけるそれがただただ染み入る。

物語における容赦の無さというのも本作の肝だと思っていて、それがあるからこそ、レース、ひいては物づくりの発展というものの奥行を感じさせる。

ミッレミリアでの事故とういものをあそこまで生々しく描くというのもあればこそ思うところもあるわけでして、故に観るものの心臓を抉ってくる映像に仕上がっている。

当たり前のことですが、危険なものを作るということはそれ相応の犠牲のもとに成り立っているわけで、その重みを感じさせるにはこれくらいドストレートに表現しなくては伝わらないとも思える。

技術的、素材的にも今よりはるかに劣る中、人力による努力と度胸の賜物こそが現代においてブラッシュアップされ日常に浸透している。

これって意外に忘れがちな視点ですし、今の方が安全基準なんかも厳しい分、突拍子も無いようなものが生まれにくいということも時代性の一旦な気がします。

どちらが良いというわけでは無いものの、技術革新の背景にはこうしたものが絶対的に潜んでいるという事実、これを噛み締めずにはいられないところが本作によって顕在化したというのはストーリー以上に映像としての力が大きかったように思えてなりません。

”自由”に対するところも同様で、かごの中の鳩とフェラーリ一族。

終盤でラウラが述べていたように元は自由であったはずがいつのまにか自由を失い、それにすら気付かず抗えもせず。

人の一生も兎角例外でなく、年齢を重ねれば自由への裁量が大きくなるはず、と思っていたものの、ある意味でそれは逆であって、外の世界の広がりと反して自己の世界が縮小していく。

感覚的な世界は広がっているのに、様々な枷により自由に飛べないというのは重くのしかかるテーマとして、今の自分には響くところが大きかったような気もしております。

いずれにせよ賛否両論ある作品かとは思いますが、個人的にはかなり好きな作りの作品でした。

では。

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

フェラーリ【Blu-ray】 [ マイケル・マン ]
価格:4,444円(税込、送料無料) (2025/6/20時点)


 

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

フェラーリ [ マイケル・マン ]
価格:3,520円(税込、送料無料) (2025/6/20時点)