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探幽訪真:深く、自由に、偏りなく潜る

論理を置き去りにする嗅覚の暴力──『イングランドvsノルウェー〜ワールドカップ2026 ベスト8〜』を読む

『イングランドvsノルウェー〜ワールドカップ2026 ベスト8〜』

イングランドは“演技”を必要とした」ノルウェーメディアが伝えた“誇りの敗戦”  判定に苦しめられるも「素晴らしいチームになった」【W杯】|CoCoKARAnext(ココカラネクスト)

15 ゴードン、外側へ張ってきてる。ようやく景色が動き出すか
51 サカのカットイン。この左足の鋭さはマドゥエケには出せない特権なわけ
77 ノルウェーの両翼への2枚監視。文字通りの「密室」状態
87 サカのグラウンダークロス。ヤマルを彷彿とさせる、審判の目すら置き去りにする精度
93 ベリンガム、やはりそこにいる。嗅覚という名の内的真実

イングランドの若き才能たちがノルウェーの堅牢な壁と激突する。これほど濃密で、これほど残酷なドキュメンタリーもそうは無い。

まずはスタメン。

イングランドはベリンガム、サカ、ゴードンの強力な前線。 対するノルウェーは守備時4-1-4-1のコンパクトな陣形。モメンタムの推移も拮抗していた試合展開を鮮明に反映しているかと。

意外なほどにローブロックを徹底し、中盤のライン間を隙間なく埋めてくる、まさに巨大な密室を構築してきたわけですよ。

序盤、目を引いたのは両チームの気合のぶつかり合い。 スタッツを見れば一目瞭然なわけですが、デュエル数で上位3人をイングランド勢(ゴードン14回、ベリンガム12回、サカ12回)が占めている。

これは、前線のウィングとトップ下がどれだけ献身的にプレスに奔走していたかという証左なわけ。 特にゴードンのデュエル勝利7回という数字は、単なる攻撃職人ではない、泥臭い戦う姿勢そのものですよ。

一方で、ノルウェーの抵抗の質も凄まじかった。 デュエル数こそイングランドに譲ったものの、タックル数ではノルウェーのウィング勢、シェルデルップ(6回成功)とリエルソン(4回成功)が上位を独占している。

イングランドが「個」の力で仕掛けてくるのに対し、ノルウェーは文字通り「毟り取る」ような守備で対応していた。このあたりの、スタッツに現れる両チームの思想の対比が実に面白い。

そんな膠着したノイズを叩き潰したのが、ゴードンとベリンガムのドリブル突破なわけ。 ゴードンのドリブル成功4回、ベリンガムの3回という数字。

引いて守るノルウェーのライン間へ、迷いなく切り込んでいくその確信に満ちたプレーこそが、停滞していた景色を動かすトリガーになっていた。

サカのカットインも光る。この左足の鋭さはやはり特権なわけで。ライン際ギリギリからのグラウンダークロスもそう。スペインのヤマルに通ずるような、物理的な早さを超越した見えてる領域のプレーですよ。

そして、怪物ハーランド。 彼のスタッツがまた異質で。走行距離は約10.1kmと、今大会では省エネ型な部類に入るわけですが、スプリント回数は147回を記録している。 無駄なエゴのノイズを削ぎ落とし、ただ一点のゴールという真実のために牙を研ぐ。この効率という名の暴力こそが、彼のストライカーとしての内的真実なのだと思う。

しかし、最後にすべてを上書きしたのは、やはりこの男。 93分、ジュード・ベリンガム。 泥臭い混戦の中、気付けばそこにいる。かつてのメッシが持っていたような、論理を置き去りにした「嗅覚」。

不確かな現実をゴールという結晶に変えてしまうあのポジショニングには、もはや執念の賜物と言うほかない。

ノルウェーも最後まで誇り高く戦った。 GKニーランのセーブ数6。彼がいなければ、蹂躙の度合いはさらに増していただろう。

リエルソンやベルグが効いていたからこそ、最後の最後までイングランドは「密室」の中で喘いでいた。

シュート数、ポゼッション。数字の上ではイングランドの快勝に見えるかもしれない。 だが、その裏側にあった「剥ぎ取るタックル」と「切り裂くドリブル」の応酬こそが、この90分を特別なドキュメンタリーにしていた。

次は準決勝。 さらなる高みで、景色が変わる瞬間をまた見届けたい。

では。

ピッチの解像度が上がれば、あの90分間の残酷なドキュメンタリーはさらに違った景色を現す。配置の論理とそれを破壊する個の営みを、より深く静かに見つめるために。

ピッチ上に描かれるデザイン、あるいはゲームの進め方の話。4-2-3-1という現代の基準点を学ぶことは、あの密室に閉じ込められた若き才能たちの「迷いと確信」を、より冷徹な輪郭線で捉え直すための礎となる。

『フランスvsモロッコ〜ワールドカップ2026 ベスト8〜』――針の穴を通す圧倒的な“個”と、砂漠の誇りが交錯した90分

『フランスvsモロッコ~ワールドカップ2026 ベスト8~』

フランスvsモロッコ 0-0で後半へ エムバペPK失敗…フランス13本シュートも無得点 守護神ブヌが躍動【サッカーW杯】(テレ東スポーツ) -  Yahoo!ニュース

24 モロッコ、9番を置かないウィングの進入が顕著
28 エムバペのPK、ボノのジャストミートなセーブ。あのVARの時間は何だったのか
37 コネの速さと的確さ
47 ウナヒのキープ力と上手さ
71 デンベレ、奪取の瞬間に見えている景色が違う
84 エムバペ、あの針の穴を通す技術

ついにここまで来た。ワールドカップ、ベスト8。

濃密で、それでいて残酷なほどに美しい90分だった。 もはや言葉は不要かもしれないが、あのピッチに流れていた「呼吸」を書き留めておこうかと思いまして。

まずはスタメン。

フランスはエムバペを筆頭に、オリーセ、デンベレ、そして新星ドゥエを並べる超攻撃的布陣。

対するモロッコは、ハキミとブラヒム・ディアスの右サイドを起点に、ディニュの背後を執拗に狙う構図を鮮明に描いてきた。

立ち上がりから、圧倒的に支配していたのはフランスでした。 アタックモーメンタムを見ても、その押し込み具合は気合がみなぎっておりました。

ですが、モロッコのローブロックは実に丁寧で、全員が守備に戻る献身性を見せてもいたんですよね。 特にウナヒのキープ力と上手さは、フランスのプレスを無効化するほどの輝きを放っていましたし、中盤でのキャリーでも悪くなかった。

試合の大きな転換点となったのは28分のPKシーン。 VARの介入により長い時間が費やされ、エムバペの「勢い」という目に見えないフィーリングが削がれたように見えた。 そしてボノ。ボノのフェイントを織り交ぜたタイミングは、まさにジャストミート。エムバペの渾身のキックを完全に読み切ったあの瞬間のカタルシスは、モロッコサポーターならずとも痺れるものがありました。

だが、それでもフランスの“個”は、審判の目すら置き去りにするほどに早かった。

 特に今大会のデンベレは、戦う姿勢そのものが変わっておりました。 ボールを奪取した瞬間に見えている出し所の精度、そして自ら戻って守備に走る献身性。

そこにオリーセの驚異的な馬力が加わる。 デュエル数18で10回の奪取。キープしても奪われず、守備でも強度を保つその姿は、ライスの馬車馬を彷彿とさせる。

空中戦の勝率92%というスタッツも、フランスの地力の強さを物語っている。 モロッコが9番を置かずにサイドから崩そうとしても、最後はサリバやウパメカノの壁が立ちはだかる。

そして、84分。 ザ、エムバペ。そう形容するしかないゴールが生まれた。 分かっていても止められない。あの針の穴を通すようなスペースを撃ち抜く技術。 前半のPK失敗という過去の悔いを、現実のゴールという圧倒的な内的真実で上書きした瞬間でした。

モロッコも最後まで誇り高く戦った。 最後尾からのビルドアップ、フランスのプレスを剥がすあの丁寧な繋ぎは、まさに砂漠に引かれた一本の道(シラート)のように美しかった。

だが、結果は非情なもので、1失点からの対応を敷いたものの、続けての失点。 一度歯車が狂えば、状況はただひたすらに悪化の一途をたどり・・・。

バイタルエリアでの一瞬の寄せの甘さ、そこをフランスの化け物たちは見逃してはくれなかったですね。

シュート数22対5。 この数字以上に、モロッコが突きつけた抵抗の重みを感じた試合でした。 ボノの6つのセーブがなければ、蹂躙の度合いはさらに増していたことでしょう。

次はいよいよ準決勝。 この高揚感と、ままならない現実の果てにある景色を、また追いかけたいと思う。

では。

ピッチ上に現れる、あの目に見えない「勢い」や「呼吸」の正体を突き詰めたくなる。稀代の戦術書きが残した視線は、砂漠に引かれた一本の道のように、スタッツの裏にあるドラマを静かに照らし出してくれる。

ピッチを俯瞰する監督たちの脳内には、どのような秩序が描かれているのだろう。一瞬の寄せの甘さ、あるいはサイドに引かれた一本の道を、戦術のレイヤーから解き明かしていく視線は、観戦という体験の解像度をどこまでも引き上げてくれる。

『A2 完全版』が暴く、絶対的な悪を欲しがる私たちのグロテスクな凡庸さ

『A2 完全版』

A2 完全版』・『AGANAI 地下鉄サリン事件と私』/名古屋でシネマ⑤・⑥ | 『シネマ de もんど』 ももじろう2号のブログ


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オウム真理教(現アレフ)の広報部副部長に密着し、オウム事件の本質に迫った森達也監督のドキュメンタリー「A」(1998)の第2弾として2002年に公開された「A2」の完全版。

教団施設を追われて日本各地に拠点を分散して活動している出家信者たちと地元住民との対立や融和、右翼との交流といった社会との軋轢を描き出す。完全版では、02年当時に諸事情でカットされた部分を全て再現した。

京都国際映画祭2015で上映され、16年6月、森監督の新作ドキュメンタリー「FAKE」の公開を記念して、東京・ユーロスペースにて初の劇場公開。

『A』から4年。

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様々なことがはっきりとし、それでも宗教を信じ活動するオウム。

相変わらずの緊迫感が漂うタッチと、当時の世相を反映するような人々の視線。

同調圧力が強いと感じてしまう部分はいっそうの拍車を掛け、国家権力やマスコミといった大衆の意志以上の恣意的な枠組みを感じてしまう。

どこにいても場を追われ、肩身の狭い思いをするオウム勢はそのままであって、その周囲の一般市民は意外にも交流を深めるうちに親交に変わっていったりもする対照的な構図が何ともいえない世相の不思議を反映するところでもあり、奇妙な関係性がそのままに映し出される。

昨今だとSNSなどでのバッシングや関わりの無いものですら絡んでくるリアルの有様。

事象と人を切り離して捉えられないのか、それとも叩くという行為そのものを快感としているのか。

声を挙げることは重要だと思うし、実際に多勢に無勢、徒党を組まなければ立ち向かえないという大衆の論理もわかる。

その過程において自らの頭で考え、発言し、行動するという骨子が抜け落ちてしまうところに問題が潜んでいると思うわけで、それが露呈してしまうのは絶対的な悪と決めつけてかかる方が好都合だからなのではと勘ぐってしまう。

マスコミによって報道されることの真実がどこにあるのか、警察の行動もそう。こうしたドキュメンタリーを観れば観るほど、疑念が生じる。

右翼との衝突場面においても、一見すると悪に見えるのは右翼側であって、それは行動の暴挙さや強硬さ。風貌のそれらも加わり、ぱっと見では良き行動をしているようには到底見えない。

これが事実であり、実際に行っている行動が正しいかどうかは分かりかねるが、全てが悪であり、一概に危険視するというのもどうなのかということは追ってみれば少々見解も変わってくる。

警察との折衝でも理に適った会話をしているし、その後の内部に入ったカメラから見えてくる彼らの行動というのは目的はいずれにせよ、事の解決に動いているようには見える。

しかも、そのリスクを取って行動しているという点においては、警察のそれとは大きく異なるところでもあり、守られるものが無いから、自分たちで武装するということもわからんでもない。

マスコミも同様で、オウム信者がテレビ報道や新聞を目にし、「これだけ適当な情報が流れるとどうしようもない」というぼやきからして、実際とは異なるところがあるのだろうと思うし、偏重の意志が無いとは到底見えないというのが正直なところ。

より万人受けし、喜ばれる記事を。

本来の目的が何であるのか、そうでない者達の声というのはどこにあるのか。

代弁者としての真実でなく、歪められた事実を好む。

オウム信者の人間性の根幹は知れないが、この映画を通して見える人間味のようなところからは本当に凶悪な集団には見えてこないという衒いもある。

まあ、羊の皮を被った狼というように、これが偽りであり、本当はもっとグロテスクな側面もあるのかもしれないわけですが、ある側面だけを見て判断するのは個人で良く、集団で、総意を捏造する必要は無いように思う。

カメラで捉えられた視点というのは森さん独自のものであり、そこに作為が無いとは思わない。

それでも、偏った視点よりもよっぽどいいと思うわけで、とにかく真実を多面性を出来る限りフラットに捉えてたいと思うのは、大衆の論理に巻き込まれてしまうのを良しとしない自身の心情も相まっているのかもしれない。

食べ物や、トイレ、ゴミなど、汚い場所や箇所にフォーカスする視点というのは彼自身が物事の美的な箇所のみに目を向けないという意思表示でもあり、その側面が誰しもにあるという表れにも見える。

終盤でのやりとり、森さんと荒木さんとの会話を通しても直視するのは、森さんという人物を媒介として人々が本当に思うオウムへの疑問を投げかける形に見え、それに答える荒木さんもまた自身の抱く思いが表情などにも良く表れていたように思う。

信者と元同級生の関わりにおいても、そうした辛辣さと親密さが滲み出るようなところもあり、元々は同志だった人間が結果的に別々の道を歩むというのも現実ではそう珍しくも無い。

人間の中にある感情や心境などというのは一方的なものではなくて、多種多様、玉石混合の中あるという当たり前の事実に気付かせてくれるという意味でも事件の後日談としても、自らに問いかけねばならぬ事が詰まっているように思えてくるから不思議なものだ。

ドキュメンタリーの力を知った『A』『A2』。

森さんの作品は面白い。そして事実は小説より奇なり。

では。

私たちがなぜ「総意」を捏造し、徒党を組んで何かを叩いてしまうのか。その心理のからくりを紐解き、集団という怪物から「個」の佇まいを取り戻すための、静かな手引書のように思える。

カメラが捉える世界には必ず作り手の作為があり、だからこそ多面的でフラットな視点が必要になる。映像という歪んだ窓を通して真実の断片を凝視するための、もう一つの批評の眼がここにある。

エゴのノイズを叩き潰す爆音の儀式。映画『シラート』のラストが僕たちに直視させる現実

『シラート』

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失踪した娘を捜すため砂漠のレイブパーティに参加した父と息子の旅の行方を、奇想天外なストーリーとクールなダンスミュージックを融合させて描き、本国スペインをはじめヨーロッパ各国で話題を集めたロードムービー。

ルイスは砂漠でのレイブパーティに参加したまま行方がわからなくなった娘を捜すため、息子エステバンとともにモロッコの山岳地帯から砂漠の奥地へと車を走らせる。やがて彼らは現実と幻覚が混濁するような野外レイブ会場にたどり着くが、そこにはすでに娘の姿はなかった。父子はレイブの参加者グループを追い、娘が向かったと思われる次のレイブ会場を目指すが……。

父ルイス役に「パンズ・ラビリンス」のセルジ・ロペス。「ファイアー・ウィル・カム」のオリベル・ラシェが監督・脚本を手がけ、製作にはスペインを代表する名匠ペドロ・アルモドバルが名を連ねた。タイトルの「シラート」はアラビア語で「道」を意味し、宗教的な意味においては審判の日に天国と地獄の上に架けられる細い橋を象徴するとされる。2025年・第78回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、審査員賞など4冠に輝いた。第98回アカデミー賞では国際長編映画賞と音響賞にノミネート。

映画体験としては紛れもない傑作ながら、もう一度観たいかと言われると何とも言い難い。

事前の予告などから、興味しか無い状況で、とにかく気にはなっていた作品だったのですが、まさかの角度から殴られることになろうとは。

話の体としては娘を探しに旅に出るロードムービー。ですが、中盤からはもはやどこを目指し、何が目的なのかもわからなくなるような錯綜感の中、旅だけが続いていく。

冒頭から、「天国と地獄をつなぐ橋があり、それは針のように細く、剣先のように鋭い」的な文言が出てくるのですが、これは何某かのたよりになりそうだと思いつつスタート。

そこから凄まじい迫力のサウンドシステムを組み立てるドアップクローズが映し出され、その後レイブが幕を開ける。

この光景は圧巻でしたね。どんな音が鳴るのかという好奇心以外の何ものでも無いというようなスピーカーの佇まい。こんな環境で一度でいいから爆音の音楽を聴いてみたいものです。

そして始まるレイブシーンなのですが、他のシーンも含め、音の使い方が斬新で、音が記憶に残る場面が多いこと。

映画前編を通しての渾然一体感が半端なく、常に、不穏で揺らぎのあるビートがバックで流れ、悪い予感が背景にあることを常に留意させる。

そんなレイブについて。

1980年代後半のイギリスで産声をあげた「レイブ(Rave)」は、単なる野外音楽イベントの枠を超えた、ひとつの精神文化。

その根底にあるのは、PLUR(Peer、Love、Unity, Respect=平和、愛、団結、尊重)という思想。執拗に繰り返される電子音楽の重低音(ループビート)に身を委ね、夜通し踊り続けることで、人々は日常の「自我」を忘れ、周囲と溶け合うような恍惚感――トランス状態――を共有する。

それはかつて、太古の部族が火を囲み、太鼓の原始的なリズムで神へと繋がろうとした「集団儀式」の、現代における再来とも言える。

ハウスやテクノ、トランスなど、クラブなどでも音楽に陶酔するというのはあるものですが、レイブはそれ以上に音楽を起点とした陶酔の中に身を置くという精神的な儀式味を帯びた体験かと。

音楽を聴くと、基本的にはループが繰り返され、作品内でも言われる、「聴くための音楽でなく、踊るための音楽だ」というのはまさにそれに尽きる。

なんと、そのレイブ会場に娘が紛れているのではということで父親と息子が探しに来るんですよ。

異世界への入口、未知との遭遇。この親子からしたら完全にアウェイな世界に足を踏み入れるわけですからね。

そこで踊る人々の中、登場人物たちにネームクレジットが入る様が異様にカッコよく、この人たちが物語で主要になっていく人なのかと思いながら引き込まれていく。

その後軍隊の介入があり、その集団を逸れ、娘を探しに行くことになるのですが、思えばこの時点から自らの選択が始まっていたのでは。

レイブカルチャーというのは陶酔と、日常からの離脱を鑑みているとすると、意識的に日常から逸れるという行為を選んでいるという、脱社会的な側面も見える。

敷かれたレールをいくのか、否か。

この時からその選択は開始されていた。

序盤は意外にも喜怒哀楽ありな、ほのぼのロードムービー感があるんですよね。見どころというか、景観の美しさであったり、雄大な自然であったり、スリリングな岸壁、砂漠のドライブ。

一転するのは豪雨の崖山にて、タイヤがハマってしまった辺りから。そして、唐突な展開がその後に・・・。

まさかあのシーンがこんなところで起きるとは思わなかったですね。仮に起きたとしても、何かしら救いの朗報があると思っていたら、むしろ状況は更に悪化していくという。

この怒涛の運命に翻弄されるというのがシラートという道そのもののように思えてしまう。実際に道や白線といった細い線を想起させるショットも挿入されてましたし。

あの時こうしていれば、こんなことしなければ、そうした過去への悔いや後悔というのは結果には何も寄与することは無く、起きてしまえば、それが全て現実となってしまう。

無慈悲、それこそが人生なわけで、だれも一寸先すら予期することは出来ず、あるのは現実を直視することのみ。

それを改めて思い知らされましたね。

こうした無慈悲で残酷な現実という意味では真っ先に浮かんだのが「S ・クレイグ・ザラー」作品。

彼の撮る作品も容赦の無い現実を突きつけてくるというところがあって、違いとしてはブラックユーモアというかコメディ的な要素が少々ある分、少しは気の緩まるところもあるくらいでしょうか。

とはいえ、下敷きには確実な現実が存在し、そこから目を背けることが出来ないという性質は似通った雰囲気があり、何より、映画としての質感に非常に近い手触りを感じたんですよね。

一度歯車が狂えば、状況はただひたすらに悪化の一途をたどるという無慈悲な現実の可視化。全編を支配するじっとりとした焦燥感と、一寸先すら見通せない闇を這うような旅路は、あの砂漠の白線の上を歩く息苦しさと驚くほど地続きにある。

その後はもう気の抜けない旅が続いていくのですが、これが非常にストレスフル。

体調の良い時に観たほうが良いと思いますよ。それくらいままならなさと絶望感が支配した旅路が続く。

果たして希望は見出だせるのか、ということがこれでもかと起き、一行はどうなってしまうのかと常に肝を冷やすような展開が待ち受ける。

こんな映画体験初めてでしね。ということで百聞は一見に如かず。

物語はこの辺にして、映像面。

どこか肌にざらざらと触れるような、奇妙な生々しさを帯びているのが印象的で、これは全編がデジタルではなく、16mmフィルムで撮影されたものによる効果に見える。

荒涼としたモロッコの砂漠を舞う細かな砂塵と、奇妙なほどにシンクロする。強烈な太陽光に晒された白茶けた大地、そして夜のレイブ会場で焚かれる血のような赤。それらの色がフィルム特有の柔らかな階調で定着され、スクリーンは単なる風景ではなく、ひとつの触覚的な体験へと変わる。

監督のオリベル・ラシェは、本当は35mmでの撮影を望んでいたらしく、予算の都合、そして過酷な砂漠へ繊細なアナモフィックレンズを持ち込むリスクを考慮し、あえて機動性の高い16mmを選んだという。

デジタルカメラが現実をクッキリと記録するものだとしたら、16mmフィルムはそこに流れる空気や、登場人物たちの焦燥感といった目に見えないものを吸着する。

夕闇のなか、粗い粒子の向こうに浮かび上がる父子のシルエットを見つめていると、彼らのロードムービーが、物理的な移動であると同時に、精神の奥底へと潜っていく巡礼の旅なのだと、言葉を介さずに理解させられる。

そこに音楽も効果的に加わる。完全に映画全体を支配し、シンクロということば以上に映画における歩みと一体化しているように感じられる。

手掛けたのはカンディング・レイ。彼の鳴らすテクノミュージックは、単なる劇伴(BGM)の域を完全に逸脱しており、物語を装飾するものではなく、むしろ主人公たちが歩む人生そのものの構造を可聴化するための装置として機能する。

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意味の剥ぎ取られたループビートが、かつて砂漠の暗闇で脳を揺さぶったあの不穏な脈拍を鮮明に呼び覚ます。映画館を出た後もなお、終わりなきフロアの残響に身を委ねるための、冷徹なミニマリズムがここにある。

テクノという音楽には、クラシックのような起承転結も、分かりやすい救いのメロディもない。ただ冷徹なまでに一定のビート(脈拍)が反復され、その引き延ばされた時間のなかで、私たちは否応なしに「今、ここ」の身体性に引き戻される。

この音楽の効能は、観客の脳から「意味を探そうとする思考」を奪い去ることにあるのではないか。終わりのないループビートは、娘を探して砂漠を彷徨う父子の、一歩、また一歩と狂おしく繰り返される足音と完全にシンクロしていく。

始まりも終わりもないフロアに放り出され、ただ鳴り響く音に身を委ねて歩き続けるしかない感覚。それこそが、私たちが生きるという人生の巡礼そのものの不条理であり、ダイナミズムと重なる。暴力的な低音が私たちの身体に直接訴え、レイブというもの、精神性がそうした根底に漂う。

そして音に溺れるという意味。

耳を劈くほどの重低音によって、父親の執着や、観客の安易なサスペンス的予測といったエゴのノイズをすべて叩き潰す。日常の輪郭が溶けていくカオスの先にしか、本当の”生”の核心や、不確実な世界を受け入れる覚悟は見えてこない。

要するに意味を見出すという行為そのものを拒絶し、ただ生を享受するという体験。

宗教的な概念や、信仰的なところも少なからずはあるかと思いますが、それ以上に日常からの逸脱の装置としての音楽こそがレイブの本質にはあるのではないかと。

だとすると、人はすがってもなお救われることが無いというのが現実には存在し、だからこそ、それを超越した音のさ中に身を置きたいと思う。

現実は過酷で、それだけだとしたら、生き甲斐が無いじゃないですか。

それでも道は開けないかもしれないし、救われないかもしれない。でも、やっぱり負の側面に怯えているだけではつまらない。

そんな生という道を土台にしたロードムービーなのかと思うと頷けるラストでもあるなと。

あのラストの後もどこに連れて行かれるのか、その先は希望なのか、絶望なのかということはわからないが、それもまた人生なわけですよ。

引き合いに出される映画として、『恐怖の報酬』や『マッド・マックス怒りのデスロード』などがありますがが、これもある意味では理解できる。

後半での地雷原地帯での闊歩は『恐怖の報酬』における、橋のシーンであり、行って帰ってくるだけの『マッド・マックス怒りのデスロード』に対し、行って帰ってこれないだけの『シラート』。

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いずれにせよ、音に驚かされ、常時、音に気分をかき乱されることは間違いのない作品でもあり、質感のある映像の迫力も含め、是非映画館での体験が望ましい一作。

何度も観たいかと言われると、今のところはお腹いっぱいな部分がありますが、忘れがたい映画体験になるのは間違いないことでしょう。

それでは。

映画『A』が暴いた、被害者でも加害者でもない「傍観者」という悪意のエンタメ化

『A』


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オウム真理教の広報部副部長、Aこと荒木浩を中心に、オウム事件以後の彼らを追った長篇ドキュメンタリー。TBS問題を契機に封印されるはずだった150時間にも及ぶ素材を作品にまとめた。監督はフリーのテレビディレクター、森達也。家庭用デジタルカメラを手に様々なオウムの施設に足を運び荒木浩を追った。森と共に撮影/編集の補助を担当し、製作を手がけたのは「部屋 THE ROOM」を製作した安岡卓治。音楽は朴保バンドの朴保。キネコ。16ミリ。

ドキュメンタリーとはかくあるべし。

作られたもので無く、本当にその場で起きているリアルを撮る。中立で俯瞰的な視点というのは絶対に必要であると思いつつ、手掛けた森達也さん曰く、「主観的な視点は必ず入ってしまう」という側面を明言している。

その理由を聞くと納得するところではあるのですが、そもそも撮っているという時点で少なからず何を撮るか決定しているわけで、それが主観的視点にもなり得るということ。

確かにドキュメンタリーと聞くとあくまでもその場をただ撮影したように思えますが、言われてみれば撮影者の意図が入るというのはなるほどな視点。

最近だと上出さんの『健康チャンネル』にハマっていることで、ドキュメンタリーへの熱が高まっているわけですが、見せかけのそれより、事実は小説より奇なり。

往々にして現実は混沌としていて、そこに生きる人々の思想もまた混沌としているというのにひどく興味を惹かれている。


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映像という枠組みからあえて言葉へと溢れ出た、世界の果ての「食」と「生」の記録。美化も断定もしないその文章は、私たちが安全な場所から見つめる現実が、いかに脆く主観的なものであるかを静かに突きつけてくる。

組織の理念や社会のバックボーンが提示する「正しさ」に、私たちはどう抗い、自分の足で立てばいいのか。ビジネス書の体裁をとりながらも、その根底にあるのは混沌とした社会をサバイブするための、極めて誠実なドキュメンタリストの眼差しそのものだった。

この作品では当時一大事件となった地下鉄サリン事件、オウム真理教のその後にフォーカスして撮影されているわけですが、あの時ニュースや紙面などで述べられていた情報が本当に真実だったのかと思わされる。

起きたこと、起こしたことは確実に存在するし、そこに疑いはない。

でも、事件以外の点、オウムでの日常やそこで暮らす人々、観るまではそちら側で無い視点のみにフォーカスが当たっていたように思うし、この内容が地上波で公開出来なという理由も理解できる。

自身に置き換えても言えることで、被害者になれば、加害者の論理などはどうでもよく、被害にあったという事実にのみ焦点を当てるというのは心理としては理解できる。

もしくは他人事ですよね。

被害者でも加害者でも無いとなればそれは他人事でもあり傍観者でもある。そうなると途端にその事柄が噂話や陰謀論といったエンタメ化してしまい、攻撃する側、される側という端的な構図が立ち昇る。

これが日本人の気質である同調圧力と相まることで全体主義的にその様相は一層高まる。

特に警察やメディア、近隣住民などを見ていると露悪的な側面が見えるというか、物事を断定したような、恣意的な行動や言動に感じられてしまう。

当事者であればまだしも、そうでない人間たちがなぜ断定的に行動出来てしまうのかが理解し難い。

感情的にそれが先行するのは理解できるが、だからといってあそこまで過剰に行えるというのはそれを正とする無言の圧力、社会という絶対的なバックボーンが存在するからだということは間違いないかと思う。

他方で感じたのが、メインで登場する荒木浩という広報部長が本当に何を思い、感じていたのかということ。

オウム信者全員に言えることでもあるが、特に荒木さんに関してのその思いは強く、序盤での信仰についての発言は理解できる。

その後の各所への対応というのも基本的には合理的であって、感情論で語っていない冷静な側面も納得できる。

ですが、終盤になり、事件の真相や実行犯たちの輪郭がはっきりとしてきたところで問われる場面において、徐々に整合性を欠くというか、本当にそう思っているのだろうかという疑問符が頭によぎる。

当初、教団の思想に賛同し、尊師と呼ばれる麻原に傾倒した。その対象が虚構だったかもしれないという事実に気付いていないわけは無いし、可能性として見出せない頭の持ち主でも無いと思う。

そんな印象の彼が、答える時に躊躇し出すんですよね。答えを勘案するというか、どういうべきかというような。これが凄く印象的で、信仰の真実がそこにあるような気もしてしまい。

実際に信仰というのはその事柄に対して信頼がおけるから成立するもので、そこに疑念を抱いてしまったらそこまでの自分を否定することにもなるし、今後の指針も見失うことになってしまう。

それって非常に怖いことですよね。

「なぜ?」という疑問符を付けた途端に考えなければならず、考える以上答えが出るまで考え続けなければならない。

例えばですけど、自分が絶対に入りたいと思っていた職場に圧倒的なカリスマ性を持ったトップがいるとして、そのトップが社の理念を蔑ろにし、私腹を肥やし、社の為という建前を利用していたということが明らかにになったとしたらどうか。

その人への信頼、その会社への信頼、それを共にしていた仲間、そして何よりそれを良しとしていた自分自身。

会社を辞めれば目先の問題は解決するかもしれない。ですが、会社自体にそうした構造が渦巻いていて、人間にその偽善性が内包されていると大きな枠組みで知覚してしまったら。

辞めたとて、自分の中に生まれてしまったこの疑問が拭い去られることは無くて、ずっと心に巣食うことになってしまう。

なんか自分には荒木さんがその葛藤の中にいた様子というのが正直に映されていた気がして、森さんと終盤で話すシーンなどはそれが表情、間、言葉の端々に表れていた気がしてならないんですよ。

何がそれぞれの心に宿っている真実かはわかりませんが、嘘の無いドキュメンタリーというのはこうも人に響くところがあるのかという映像の力。

真摯に見つめる視点と、不意に現れる葛藤。『福田村事件』もそうでしたが、森さんの忖度の無い視点というのは本当に響くところがあります。

では。

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  • ドキュメンタリー映画
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カメラを向けるという行為そのものが孕む、逃れられない主観と傲慢さについて、監督自らが思考を巡らせた一冊。映像の枠組みを超えて、私たちが日々消費している「客観的な事実」というものの危うさを静かに突きつけてくる。

『黒牢城』が暴く、歴史という名の巨大な密室と「何を信じるか」という底なしの問い

『黒牢城』

ポスター画像


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「スパイの妻」「クリーピー 偽りの隣人」などで国内外から高く評価されてきた黒沢清監督が自身初の時代劇に挑み、第166回直木賞と第12回山田風太郎賞をダブル受賞した米澤穂信による同名ミステリー小説を映画化。

荒木村重は織田信長の暴虐なやり方に反発して謀反を起こし、有岡城に立てこもる。織田軍に包囲され孤立無援となった城内で、村重は血気盛んな家臣たちを抑えつつ、妻・千代保を心の支えに、城と人々を守ろうと苦心していた。そんな中、城内で少年が殺害される事件が起こり、その後も怪事件が続発する。容疑者は密室と化した城内にいる家臣や身内の誰かで、城外には敵軍、城内には裏切り者という状況に、誰もが疑心暗鬼に陥っていく。追い詰められた村重は、信長の使者として説得に訪れ牢に囚われた天才軍師・黒田官兵衛に協力を仰ぎ、事件の解決に挑む。

城主・荒木村重を本木雅弘、天才軍師・黒田官兵衛を菅田将暉、村重の妻・千代保を吉高由里子、村重の腹心・荒木久左衛門を青木崇高、若手の家臣・乾助三郎を宮舘涼太(Snow Man)、事件の目撃者である狙撃の名手・雑賀下針を柄本佑、村重の隠し刀として暗躍する郡十右衛門をオダギリジョーが演じる。2026年・第79回カンヌ国際映画祭カンヌ・プレミア部門出品。

ミステリーという建付けをした”信仰に対する問い”とも取れる。

黒沢清作品は常に付き纏う、どことない不穏さと不気味さが魅力的だと思っているのですが、本作もその体は崩れておらず。

時代劇は初めての試みとのことですが、意外に相性も良さそうで、現代における過去を見る時代劇のあり様として、ある種の切り口を提示したように思えた一作。

舞台となるのは有岡城。どんなところかというと。

有岡城跡は、JR伊丹駅の目の前にあります。「日本最古の総構え(城だけでなく城下町全体を堀や土塁で囲む防御スタイル)」の城としても歴史的に有名で、映画のあの「逃げ場のない、巨大な密室」という狂気的なシチュエーションを際立たせる最高の舞台設定になっています。

軸となる荒木村重という人物は知らなかったのですが、知らずとも人柄や背景は分かるように描かれており、戦乱の世における独特な箇所を切り取ったなというところ。

原作は米澤穂信氏による同名のミステリー小説。この『黒牢城』の凄いところは「歴史の事実を1ミリもねじ曲げていない」点にあるらしい。私自身、こちらはまだ未読なので機会があれば是非読みたい。

史実の隙間を1ミリも違えずに埋めていく精密な筆致が、映画が描き出した不穏な解釈の土台にある。映像が削ぎ落としたディテールを言葉の層から補完するとき、あの密室の解像度はさらに深まるのかもしれない。

ちなみに黒沢監督曰く、「原作が存在している方があり得ないような物語でも表現し易い」とのことで、だからこそこういった物語の間を埋める解釈を黒沢流に味付けできるのかなと思えてくる。


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物語ですが、冒頭から淡々と事は進み、速攻で黒田官兵衛は牢獄に。

そこからの展開は『羊たちの沈黙』そのもの。戦国時代の泥臭い籠城戦を描いているはずなのに、漂う空気は上質なサイコサスペンスのそれ。土牢の格子を挟んだ村重(本木雅弘)と黒田官兵衛(菅田将暉)の視線の応酬は、まるでレクター博士と対峙するクラリスのようで、スクリーン越しに息が詰まる。

格子越しに交わされる視線と対話の緊迫感は、あの地下牢の記憶を呼び覚まさずにはいられない。戦国の城に漂う狂気の輪郭を、この至高のサスペンス映画の呼吸からもう一度手繰り寄せてみたくなる。

相変わらずというか黒沢節が随所に盛り込まれていて、なんとなくどこに連れていかれているのか、何を問われているのかがわからないような構成。

端的に見ると起きている事件的なミステリーを鑑みればいいのだと思いますが、それ以上に村重の心中が気になって仕方が無いような撮り方になっているのが印象深い。

どの角度から観ても村重の心中に揺らぎがあるように伺え、察することが出来ない。

映像自体のロングショットもその効果を助長させているようにみえ、ポツンと引きで見る画が不思議な空虚さを醸し出す。

過去も現在も、抱えているような悩みは同じようなもので、その地続きの悩みが現代と結合する面白さがある。

活劇にしろ、事件にしろ、終始淡々と描かれており、全ての出来事が取り留めも無く行われているように見え、起伏を感じない。それにより人間模様や心情へのフォーカスが高まるんですよね。

不穏さとも繋がるところでもあり、心ここにあらず的な画作り、演出がいっそう村重の心理を浮き彫りにしていく。

それを見事に介在するのが黒田官兵衛であり、千代保であり。

役者の使い方も豪華な並びながら、それを一切表に出さないようなさりげなさ。無駄遣いと言えばそうかもしれないですが、この使い方だからこそ生きる良さもある。

映像にしてもそう。見せた方が外連味が出るような時代劇の要素を廃し、構図も人物にフォーカスしたり俯瞰したショットが多いというのも淡々とした一興として描いていると思えば納得もいく。

では何を描くのか。

”信仰に対する問い”というのが根底に横たわっているのではないかと思ったわけです。

というのも村重のやり取りには終始違和感が付き纏い、当初は史実にもある村重の行動の不明瞭さからくるものだと思っていたのですが、よくよく観ていくと村重の心の揺らぎ、つまるところ、生きていくうえでの大義や忠義、信念や情といった部分。何を信じたらいいのかという迷いが、何を信仰するかという問いになっているのではと。

黒田官兵衛に言われた「誰も相談する人もおらず・・・」というような会話が最も端的に示しているようにも見える。

妻の千代保は極楽への執着として進まずともそれは得られるということを拠り所にしている様子が描かれ、黒田官兵衛も息子へのそれを、終盤での雑賀下針(柄本佑)や郡十右衛門(オダギリジョー)も義に対する敬意を示し、それぞれの道を行く。

信仰するというと大げさに聞こえるかもしれないけれど、結局人は何かを拠り所に、目指す何かが無ければ局面での選択が鈍るということを示しているようにも見え、逆に言えばそれがあるから頑張れる。

物語の結末は史実にもあるよう、城を出ていく村重の姿で幕を引くわけですが、この哀愁のあるような、この後を想像させるような余韻も良い。

基本、城の中だけで起きるミステリーという構造と心理戦。外側ではミステリー、内側では心情という時代劇にしては斬新な切り口でした。

では。

『RADIO GALAXY』という劇薬。FRUITS ZIPPERが仕掛けた音響の「緊急事態」

FRUITS ZIPPER『RADIO GALAXY』

RADIO GALAXY|SINGLE|FRUITS ZIPPER OFFICIAL SITE


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NEW KAWAII (通常盤) - FRUITS ZIPPER

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アイドルという枠組みを超え、一つの純粋な音響体験として耳に飛び込んできたのが、FRUITS ZIPPERの『RADIO GALAXY』。

これがまた、独特な質感を伴った一曲でして。癖になる、やめられない。

初期楽曲でありながら、彼女たちのパブリックイメージである可愛らしさを、EDM的な暴力性とスペーシーなテクスチャーで包み込み、リスナーを日常から数万光年彼方の深淵へと引きずり込む。

舵取りを担ったのはYUC’e氏。ハイパーポップやKawaii Future Bassの文脈を汲みつつ、煌びやかなシンセと重厚なベースラインという相反する要素を共存させるその手法は知的な静寂と狂騒を同居させる装置として機能している。

まず耳を奪われるのは、その音響空間への圧倒的な没入感でしょうか。

打ち込みベースの4つ打ちキックの上に、シンセ的なスネアが乗る構造。単なるリズムの提示ではなく、宇宙の膨張をそのまま音像化したような広がりを持っている。日常から乖離した異空間へ、精神を強引に分離させるための装置。そこに横たわるのは、温もりよりもむしろ、未知の領域に足を踏み入れた微かな緊張感に近い。

最大の中毒性は、中盤で訪れる「緊急事態発生」という転調でしょう。これまでの天国のような多幸感が、一瞬にしてビートの質感ごと切り替わり、別の曲を聴いているような感覚、あるいは地獄のような底知れぬ揺らぎへと変質する。それは可愛らしさという体裁が、EDMの濁流によって一時的に破壊されるカタルシスでもあり。

個人的な推しでもあるまつかれパートにおいて、その緊急事態が宣言される皮肉。彼女の持つ純然たる可愛らしさが、楽曲の構造的な歪みと衝突する瞬間、観る側としては思わず笑みがこぼれる。それは、理解していると思っていたものが変化する際の、心地よい矛盾を孕んだ混沌さをもたらす。

ライブにおけるファンとの掛け合いにおいて、その身体性はピークに達するわけで、アイドルとファンという境界線が融解し、一つの巨大なうねりへと昇華される瞬間が存在する。それは、走ることで日常とシンクロしていく感覚や、あるいはピッチを縦横無尽に駆ける選手たちの不屈さに近い、行為と感覚の一体化に近似する。

ハイテンションなノリが物理的な熱量となって精神を侵食し、気がつけば宇宙の彼方へと連れて行かれる。結局のところ、求めているのは、こうした不確かな現実を上書きしてくれるような、圧倒的な内的真実であり、楽曲による彼方への旅を模索しているのかもしれない。

では。

NEW KAWAII (通常盤) - FRUITS ZIPPER

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記号化されたカワイイの裏側で脈打つ、日本のポップミュージックの特異な進化の系譜。その構造的なおもしろさを、もう一歩深い視点から眺めるための補助線。

どこまでも透明で、それでいて引き締まった低域の輪郭が、耳の奥に底知れぬ宇宙の広がりを立ち上がらせる。電子の粒が描く狂騒のレイヤーを、ただ眺めるのではなく、その空間の気配ごと 身体に馴染ませるための美しい選択肢。