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探幽訪真:深く、自由に、偏りなく潜る

世界の終わりは遠くにない――岡崎京子『エンド・オブ・ザ・ワールド』を読む

岡崎京子『エンド・オブ・ザ・ワールド』

1994年、祥伝社から刊行された岡崎京子の短編集『エンド・オブ・ザ・ワールド』。彼女がヤング・レディース誌へと活動の主軸を移して以降、初めて世に送り出した記念碑的な一冊。

両親を殺しアメリカ中西部を放浪する男女を描いた表題作ほか、オカザキ流・吸血鬼譚「VAMPS」、小学生が体験する夏休みの悪夢「ひまわり」、破綻の青春を描いた「水の中の小さな太陽」、スカートをはき始めたお父さんをめぐる家族の物語「乙女ちゃん」の短編5編を収録。岡崎京子の傑作集!

収録された5つの短編は、どれも日常の裂け目に潜む不穏な空気と、そこから這い出す生々しい衝動を、驚くほどPOPな筆致で描き出す。

同時に軽薄なポップさの裏に、どれほど冷徹で痛烈な現実直視が潜んでいるかという現実も思い知る。

短編ごとに気になった諸々を。

まずは、表題作の「エンド・オブ・ザ・ワールド」。

両親を惨殺した兄妹の逃避行という、本来ならあまりに重苦しいはずのロードムービー。

犯罪の匂いしかしない軽薄な道中を、乾いた風が吹き抜けるような、信じがたい軽さで描ききる。

人間なんて、結局は周囲の事象に対する単なるリアクションの生き物にすぎぬ。極限の状態においてのみ結びつく、危うい橋の上効果。この致命的な結びつきの軽妙さは、やはり漫画という、絵と線が融け合う意匠だからこそ成し得る表現。

つづく、「VAMPS」。

 まず何より、登場する女性たちの瑞々しい外面性に目を見張る。祖父から受け継いだ洋館に間借りする美しい母娘、その底に伏在する秘密。

黒地に白文字で語られる、ハッとさせられるようなコマの間の取り方の秀逸さ。鋭く差し込まれる無音が、感覚を静かに撫でるような、繊細な余韻を残す。

「ひまわり」。

 暑い夏の日、小学6年生の少年が、かつて近所に住んでいたギャルから告白されるという、突発的な天変地異のごとき衝撃。

過去の記憶のインサートが視覚的な動線を巧みに揺らし、コマ割りの反転が、少年の胸に沸き起こる衝動を鮮烈に明かす。早すぎた刹那の終わり。今となっては遥か昔の、誰もが一度は胸に抱いたであろう甘酸っぱさと痛みの記憶が蘇る。

「水の中の小さな太陽」。

 優等生の仮面を被りながら、裏では薬物密売とアブノーマルな性に溺れるミーナ。

スタイリッシュでスリリングな破滅へと、焦がれるように自らを追いやる青春期の虚勢。思考と行動が不十分に前後し、真実の事象は夜の闇に沈み込む。「それだけで良かったんだよな」と気づく時には、常にすべてが手遅れという、容赦のない若さの真実。

そして、「乙女ちゃん」。

 実直な元公務員の父が、定年後に突然スカートを穿き始めるという、奇妙で愛おしい反転。そこには争うべき事柄など何もなく、誰もが自由で、ただ楽しくあれば良いという、根源的な充足が漂う。

だが、家族の移ろいとともに描かれる、静かな悲哀と哀愁。父のその奇行が、他界した母への痛切なリスペクトと追憶であると解釈した瞬間、ぽっかりと空いた心の空虚を埋める、朧げな愛の視線を感じずにはいられない。

この短編集、総じて言えるのは、皮肉に満ちた現実に対する、あまりにも透徹した直視。 世界のどこにも存在しないようでいて、実は私たちの足元に転がっている痛々しいファクトを示す。

そうしたどす黒い日常を、辛辣になりすぎないポップなトーンで包み込む、稀代のバランス感覚。 空虚な日常に、容赦なき今を突きつける短編集。まさにこの、世界の終わりのような現代にこそ、深く、鋭く突き刺さる一冊ではないでしょうか。

では。

 

探幽:世界の終わりはその時々でそれぞれの中に潜むものなのかもしれない。

 

『エンド・オブ・ザ・ワールド』にある、どこか現実から半歩ずれたような感覚。その輪郭をもう少し都市の雑踏の中で確かめたくなったとき、『リバーズ・エッジ』へと繋がっていくのかもしれない。

美しさがそのまま破滅への入口にもなってしまう世界。『エンド・オブ・ザ・ワールド』に散らばっていた危うい衝動を、一つの巨大な渦として見るなら、『ヘルタースケルター』の眩暈がその先にある。

pink

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欲望を否定するのではなく、その中で人間がどこまで滑稽に、そして切実になれるのかを見つめる。『エンド・オブ・ザ・ワールド』の軽薄さに妙な真実を感じたなら、その感覚は『Pink』にも静かに続いている。

『ブルータリスト』権力ではなく、美によって人生に勝利するということ

『ブルータリスト』

ポスター画像

「戦場のピアニスト」のエイドリアン・ブロディが主演を務め、ホロコーストを生き延びてアメリカへ渡ったハンガリー系ユダヤ人建築家の数奇な半生を描いたヒューマンドラマ。2024年・第81回ベネチア国際映画祭で銀獅子賞(最優秀監督賞)を受賞し、第97回アカデミー賞でも主演男優賞ほか3部門を受賞した。

ハンガリー系ユダヤ人の建築家ラースロー・トートは第2次世界大戦下のホロコーストを生き延びるが、妻エルジェーベトや姪ジョーフィアと強制的に引き離されてしまう。家族と新しい生活を始めるためアメリカのペンシルベニアに移住した彼は、著名な実業家ハリソンと出会う。建築家ラースローのハンガリーでの輝かしい実績を知ったハリソンは、彼の家族の早期アメリカ移住と引き換えに、あらゆる設備を備えた礼拝堂の設計と建築を依頼。しかし母国とは文化もルールも異なるアメリカでの設計作業には、多くの困難が立ちはだかる。

「博士と彼女のセオリー」のフェリシティ・ジョーンズが妻エルジェーベト、「メメント」のガイ・ピアースが実業家ハリソンを演じた。「ポップスター」のブラディ・コーベット監督がメガホンをとった。第97回アカデミー賞では作品賞はじめ10部門にノミネートされ、エイドリアン・ブロディが自身2度目の主演男優賞を受賞。そのほか、撮影賞、作曲賞を受賞した。

建築の美意識と映画の底流に横たわる美学。双方が共存し、215分という膨大な時間を濃密に映し出す。

元々、ルイス・バラガンの建築が好きなこともあり、夏に少々のインテリア変更を行ったこともあってか、建築への好奇心がいつになく高まった今年の夏。

『ブルータリスト』を観た後には、建築そのものを「見る」という行為にも少し変化が生まれる。光や壁、空間の沈黙の中に、映画とはまた別の時間が折り重なっている。

本作が公開された際、タイミングが合わずで観に行けなかった作品ながら、いずれはと思っていた長編の一作。

冒頭から音響の響きが素晴らしく、無機質な建築と共鳴するような重厚で冷徹な響きに囚われる。

手掛けたのはイギリス出身の音楽家ダニエル・ブルムバーグ(Daniel Blumberg)。本作でアカデミー賞作曲賞を受賞したようですが、納得のサウンド・テクスチャー。

  • 「音」によるブルータリズム建築
    旋律で飾らず、金管の重低音やプリペアド・ピアノの無骨な響きを“素材のまま”ぶつけることで、重厚なコンクリートや鉄骨の構造(フォーム)を音として立ち上げている。
  • 物理的な「空間の反響」を取り込んだ録音
    残響豊かな空間で録音された歪みや空気感そのものが音源となっており、劇中のコンクリート空間と物理的に反響・シンクロしている。
  • 音という「設計図」から作られた映像
    後から映像に音を付けたのではなく、楽曲に基づいて映像(冒頭の10分間に及ぶ序曲など)が編集されており、映画の骨組そのものを音楽が担っている。

中でも印象的だったのがその構図。

建築の骨格とシンクロし、映画の重要な外面性を担保する、高度な美学を伴ったフレーミング。

曲線と直線を的確に捉え、優雅さと硬質さを同居させた画作り。直線の幾何学的な効果が遺憾なく発揮され、建物や風景、あらゆる局面に線を意識した、モダンでソリッドな映像が極めて印象深い。

そもそも「ブルータリスト」というのがどういうことなのかというわけですが、ブルータリズムという建築様式から来ている。

ブルータリズム建築の特徴

 1950年代〜1970年代の戦後復興期を中心に世界中で流行しました。

  • 素材のありのままを包み隠さない化粧板や装飾を一切排除し、コンクリート、鉄、ガラスなどの素材本来の質感や重厚感をむき出し(生のまま)にします。
  • 圧倒的な幾何学性とスケール感直線や箱型を組み合わせた、彫刻的で力強いフォルムが特徴です。どっしりとした威厳や要塞のような存在感があります。
  • 機能性とコストパフォーマンス戦後、低予算で迅速に公共施設や集合住宅(市役所、大学、公営住宅など)を建てるための実用的な様式として世界中に広がりました。

素材の生々しい質感を活かし、無駄を削ぎ落したソリッドな構造物。

作中でもバウハウスの名が出てくるように、合理主義や生の素材の美学を基盤とし、戦後の悲劇や途方もないスケール感を克服すべく、コンクリートの巨塊として肉体化させた思想。それこそがブルータリズムの本質。

美しい構図が美しい映像を紡ぐというのは鑑賞すれば一目で理解できるところでもあり、個人的にあのヴァン・ビューレン宅でのライブラリーが完成した時の美しさは目を見張りました。

計算されつくした採光、厳格な角度、そして華麗な意匠。

その空間を目にした瞬間に、作り手の凡庸ならぬ審美眼が、まざまざと立ち現れる。

Making of 'The Brutalist': How Director Made Most of $10M Budget

色調も印象深く、これは多くは冒頭に出ていたVistaVision(ビスタビジョン)フィルムの質感によるもの。

加えて、時代背景の光の表現が合わさることで生まれた、カラーグレーディングの巧妙さ。

深みのある色彩と、どこか柔和な空気感、スクリーン全体と幸福に調和する。

ちなみになぜビスタビジョンを使ったのかに関しての監督のコメント。

  • 縦方向に広い画角(建築のスケール感)
    横長すぎず縦の視野が広いため、人物の寄り(顔)と巨大なコンクリート建築の全貌を1つの画面内に同時に収めることができる。
  • 1950年代という時代背景との質感の一致
    物語の舞台である1950〜60年代に実際に多用されたフォーマットを使うことで、当時の映画が持っていた本物のフィルムの空気感や粒子感を再現した。
  • スクリーンで観る「映画体験」の重み
    デジタル時代の手軽さとは対極にある扱いづらく重厚なフィルムを用いることで、映画館でしか味わえない圧倒的な質量と特別感を蘇らせた。

物語は前後半でのインターブレイクを挟んできっちりと分けられているのですが、この二部構成の対比が実に見事。

一見すれば前半は理解や繁栄といった融和の軌跡であり、後半は齟齬や衰退、不和の転落激。

だが熟考すれば、この対比の構造は序盤からすでに伏在しており、それが徐々に表面化し、昇華された結果として、この壮大なアーキテクチャが完成している。

主人公のラースローはそもそもブルータル的な思想(質実)に対し、ヴァン・ビューレンは成り金的な発想(華美)。

この質実と華美の対立構造というのは登場人物たちの葛藤や、様々な事象の中で幾度も変奏される。ブルータリストという主義が、あの激動の時代において、いかなる位相に立ち、どのような運命を辿るのか。長尺の映画だからこそ、その歩みが贅沢な余白を伴ってストレートに伝わってくる。

正義や純粋さだけでは生存し得ないという真理は、現代の地平にも通じるもの。単なる主義主張だけで、この非情な世界を渡りきることは不可能。

血なまぐさい社会という荒野をサバイブするには清濁併せ呑む狡猾さも必要なのだと、嫌というほど思い知らされる。

しかし同時に、一筋の希望として提示されるもの。それはラースローがその生を賭して現出させた、圧倒的な美の存在。権力や金、地位、あるいは名誉といった世俗的な尺度では決して覆せない、神々しい威容。それを示すことで、彼は自らの芸術を結実へと導いた。それはある種の美的な勝利であり、彼自身の生を肯定する、究極の意思表示のようにさえ思える。

そんなラースローを演じたエイドリアン・ブロディは素晴らしい演技でした。

苦悩する建築家としての繊細な印影を宿しながらも、その佇まいには知的なセンスが静かに同居する。

ファッション面でも絶妙な着こなしのバランスがツボで、シャツの着こなしがピカイチ。

サイドを短めにし、トップを長めにとったヘアスタイルとも相性が良く、コートやジャケットを羽織っても端正にまとまり過ぎず、ほどよい野暮ったさを残したスタイリングに身を包む。

タバコをメチャクチャ吸うんですが、これもまた然り。

タバコとスタイルが不可分であるという幻想は、映画から喫煙に入った世代故の名残なのかもしれませんが。やめたタバコを吸いたくなるのもまた、こうした映画の成せる残滓なのかもしれません。

Quella di The Brutalist è una storia reale? László Tóth è davvero esistito?  Ni | GQ Italia

極めて長大な映画であるが、だからこそ許される時間という名の余白を堪能し、厳かな美の秩序に深く沈潜する。至高の一作。

ただし欲を言えば、ラストでの事柄というのは幸福へと繋がったことによる結果だったのかということは疑いの目も勘ぐってしまう。

では。

 

探幽:有終の美とは、自身の肯定の是非にかかる。

 

スクリーンで浴びた直線と光、そして深い色彩を、もう一度自分の時間の中で見返してみたくなる。215分という長さもまた、途切れない没入のために必要な建築的スケールなのかもしれない。

装飾を削ぎ落とし、形と機能の関係を問い続ける思想は、『ブルータリスト』の画面にも静かに流れている。ラースローの建築を、映画の外側にある長いデザイン史の中へ置き直すための一冊になる。

『アーセナルvsアストン・ビラ』1-0なのに、さながら最終決戦だった

『アーセナルvsアストン・ビラ』

Arsenal weren't at their best at Aston Villa, and that's exactly why this  win matters - Just Arsenal News

3このスペースであれ出せるのは調子ええわ
30スケリーらしいファールのもらい方、上手い
35ガブも判断落ち着いてるな。守備からのスケリーへのパス。良き

54サカコース取りエグいな
58エゼ、そしてカラフィオーリも良くリターンした
74オフだけどギマランのタメからの
83ライスこの時間に鬼だな
96こういうど根性ハヴァーツ好きやわ

初戦は無難に突破し、少々の苦手意識があったりするビラとの試合。

アウェイということもですが、守備力と総力を試される試合運びとなりました。

まずはスタメン。

この試合、鈴木彩艶が相手GKとしての初陣。

代表では見ておりましたが、クラブでのフルマッチを見るのは初めてということで、ある意味楽しみの一つにはなっていましたが、ここまでGKの目立つ展開になろうとは。

セーブ自体は1だったものの、目立ったのはお互いの対応とフィードですよね。

両者共、判断と行動に間断なく、かつ精度が高い。

ラヤは普段見慣れていることもありますが、彩艶のそれは驚きでしたね。低弾道での一発などは早さ、質、共に最高レベル。

見ごたえありました。良き初陣となったのではないでしょうか。

それにしても両チームで枠内2(アーセナルによる)、ポゼッションもアーセナル61%と極めて高いという変則のゲーム。

ビラの守備は完全に修正を入れてきている感があり、ブロック時の4-4-2がコンパクトで隙が無い。

攻守の切り替えも早く、固い固い。

攻撃時にカウンターの鋭さに欠ける部分、フィニッシュでの決定力。相手陣内での奪われる展開が多かったため、危険はそこまで生じませんでしたが、そこが磨かれれば、中々やれるチームなのではないでしょうか。

そして試合ですが、サカが見事に封殺されツォリスサイドも苦戦していたのが印象的でした。

サカサイド、マートセンが割と懸命に対応し、フォローも入っていたことで中々侵入することが出来ず。

デュエル数もサカが断トツですし、エゼ投入までは右を起点とした攻め上がりに苦慮している様子も散見されました。

ツォリスもこの試合では珍しく苦戦。

キャッシュの守備が執拗で、意外に粘着質。それもあってのサカ側からという展開だったのか、ウーデが右に流れがちだからなのか。

いずれにせよコンパクトな陣形での守備ブロック形成がエメリの狙いとすると、これは見事に功を奏し、非常に狭いスペースでのこじ開けが要求されていたように思います。

ですが後半、エゼ投入で機運が変わりました。

前の試合では左に残らず中に入ってきてしまう初期ポジションが誤作動を生んでいるところもありましたが、この試合ではそれも無く、良き部分のみが出ていた格好で。

エゼのワンタッチで裁けるアイデア、狭いスペースでの落ち着き、両者が発揮されれば絶品というのが彼の強み。

守備時のトランジションが遅れたり、強度がという難点はあるものの、それを差っ引いても局面によっては完全におつりがくる。

得点シーンでの紙一重のやり取りは全員が完璧でしたし、美しく一瞬の出来事でした。エゼ→カラフィオーリ→サカ。一瞬でも判断を間違えば封殺されてしまうような局面を見事に決めきるという。

ライスも凄かった。

攻守に渡りあの動き、対応、終盤でのあの戻りは鬼でしたね。

あの動きがあの時間で出来るのはライスしかいない。それほどに鮮烈な印象。際での活躍以上の奮闘というのは彼の凄さであり、通常運転であれほどまでにカバーリング出来るのは恐れ入ります。

その後もギマランの対人の強さ、エゲつないスルー。メリーノの潤滑油としての万能性。コンサも初の凱旋が初戦という偶然と諸々、総力戦でした。

モスケラも良くやっていたので怪我は心配ですし、ライスも何やら違和感的な感じで交代したので序盤から不穏さは漂いますが、杞憂となることを祈るばかり。

それにしてもこの試合、得点こそ1-0という展開でしたが、さながら「最終決戦なの、これは」と思ってしまうような終盤まで息の付けぬ怒涛のやり合いでした。

ビラは負けられない切迫感、アーセナルはここで追いつかれてはならぬという意地。

双方の気持ちがバチバチにぶつかり合った良戦だったのではないでしょうか。

では。

 

探幽:さながら最終章

 

この日の1-0も、単純な「苦しみながらの勝利」として片付けるには少し惜しい。アルテタのアーセナルが何を積み重ね、こうした総力戦をどう戦うチームになってきたのかを考えるとき、その背景に置いておきたくなる。

エゼのワンタッチも、ライスの戻りも、画面上ではほんの一瞬で過ぎていく。その一瞬をただ「上手い」で終わらせず、ピッチ上で何が起きていたのかをもう少し長く眺めるための補助線になるかもしれない。

『真夏の光線〜伊勢原編Ⅱ〜』雨と錆が色彩を自然へ還していく

『真夏の光線〜伊勢原編Ⅱ〜』

外に出れば日差しの陰り、天候の移り変わりの早さがここ数日の特徴でもあり、その光の加減が色の階調をなだらかに変化させる。

沈み込むような柔和性。自然に飲み込まれる色彩というのも色そのものを引き立て、いっそうの深みを齎す。

暗雲たる雲が立ち込める中、鉄錆の景観が自然と調和する。外壁の褐色と支柱の黒檀が生と死の狭間を行き来するかのよう。褐色の階調が物質の質感を誤認させる。

空を見上げると、大粒の雨。その表情をそのままに切り取るように、露出を上げ、光量を無碍に取り込み、神秘性のある黒白のハイライトで補う。雨粒とフレアの共存が驚くほどの白さを称え、黒墨は沈む。

その後雨宿りを兼ねていると、直ぐ様雨は止み、十分な湿度を伴い、物質に執拗に纏わりつくかのような塗装を施す。

懐かしきペプシのロゴと配色。反対色であっても、退色することで角が取れ馴染むというのは、何事も一点に収束する摂理に思えてならない。

また陽が出てきた。

陰陽に色濃く縁取られ、コントラストを強めに出す。

外壁のこうした文様も遺跡のよう。無作為であればこそ目に止まり刺激される。痕跡の足跡こそが遺跡であるならば、あくまでもそこに意図が介入してはならない。

さあ、入口にして出口。

自然との一体感、剥落と損壊のその先へ。

つづく。

廃墟という言葉の向こう側には、損壊や忘却だけではなく、時間によってしか生まれない色彩や質感があるのかもしれない。そうした景色をもう少し広い視野で眺めてみると、自分が見落としていた剥落の意味も少し変わってくる。

世界の廃墟

世界の廃墟

  • 飛鳥新社
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伊勢原の片隅で見た錆や剥落も、世界のどこかにある巨大な廃墟と、時間に侵食されるという一点では繋がっている。規模は違っても、人工物がいつか風景へと戻っていく過程には、どこか同じ表情がある。

三島由紀夫『真夏の死』、すべてを語らない短編の凄みについて

『真夏の死』

【新装版、新・三島由紀夫】
喪失の底で、なぜ私は狂わないのだろう――。
「古い自作を自分の手で面倒を見てやりたい」と記した短編集。〔新解説〕津村記久子

海難事故で幼い子供を失った夫婦。不幸に直面した衝撃と怒り、悲嘆からの逃避、忘却のはじまり、そして──喪失の後の心情を克明に追う「真夏の死」のほか、川端康成に評価され作家デビューのきっかけとなった「煙草」、レズビアニズムを扱った先駆的で官能的な「春子」など、短篇小説ならではの冴えが際立つ11篇を収録。著者による解説も付した自選短篇集。

やはり圧倒的。短編集でありながら、どの作品の底流にも、夏という強烈な光の一点へと収束していくような独特の気配が漂っている。もちろん、すべての作品が直接「夏」を描いているわけではない。それでも、収録作を読み進めていると、生命の濃さと、そのすぐ隣にある死や喪失、あるいは説明のつかない不穏さが、真夏の陽射しのように全篇を照らしているように感じられる。その感覚が、夏の気分の稠密に重なる。

気になる短編について少しづつ。

まずは「春子」。

女性の描き方の優美さ。そこに介在する感情の揺蕩いが、ため息の出るような筆致で描かれる。乾いた美しさ、しとどに流れ落ちる湯気、些細な椿事が許す変化。三島が女性の内心やその佇まいを描く際に駆使する語彙の稠密さは、本当に見事。

ただ美しいだけではない。その優美な文章の下には、感情がほんのわずかに均衡を崩していく瞬間が潜んでいる。三島は人物の心情を直接叫ばせるのではなく、その仕草や室内の空気、身体の感覚を通して、いつの間にか読者の側へ感情を滲ませてくる。

つづく「クロスワード・パズル」。

終わり方がきわめて秀逸。釈然としない結末であるにもかかわらず、その切れ味はなぜか驚くほど鋭い。序盤からの着実な積み上げを経て至る結論。それが曖昧模糊としていながらも、ズバッと一閃するように人間の感情の核心を射抜く。

一個の短編として、徹底的に磨き上げられた言葉の選択。その洞察力と表現の意匠には、ただ圧倒される。

答えがすべて埋まったように見えて、最後にひとつだけ空白が残される。その「埋まらなさ」こそが、この作品の魅力なのかもしれない。物語としては終わっているのに、人間の感情だけがきれいに解答されることを拒んでいるかのような。

そして表題作、「真夏の死」。

いかめしい静けさから始まり、事件を経て主人公・朝子の心に生じる変化。一度壊れてしまった関係や日常は、二度と同じ形には戻らない。その喪失感と、取り返しのつかない事態に直面した者にしか宿り得ない、狂気にも似た後悔。

なぜこれほどの感情を言語化できるのかと、言葉を失う。

真夏という灼熱の季節がもたらす生命の肯定感と、突如訪れる死のコントラスト。むしろ生命がもっとも濃く、世界がもっとも眩しく見える季節だからこそ、そこに刻まれる死は残酷さを増す。ラストの、あのズドンと胸を貫く一文の重み。

筆舌に尽くしがたい表現の魔力がある。

「花火」もまた、夏の温度感が伝わる名作。

華々しい花火という意匠と、他人の空似という日常の歪みを組み合わせ、その隙間に怪奇を忍び込ませる。「似ている」という、本来ならばありふれた偶然や日常的な感覚が、いつの間にか得体の知れないものへと変質していく。どろどろとした陰と陽の対比が、明確な説明なしに、かえって静かな恐怖をかき立てる。

華やかさの裏に禍々しさを潜ませる、夏ならではの不穏な均衡。

書き手の圧倒的な技量が、そのまま文章の凄みとして現れている。

「貴顕」、あるいは「葡萄パン」。

目をつぶっていてもなお、そこに湛えられる生の気配。たとえ自分の身に何が起ころうとも抗えない、運命という名の冷徹な法則。

ここでも印象的なのは、人間が自らの意思だけではどうにもできない力の存在だ。生きることへの執着や欲望があったとしても、世界は必ずしもそれに応えてはくれない。その無慈悲さが、三島の文章によって奇妙なまでの美しさを帯びている。

ラストを締めくくる「雨の中の噴水」。

夏の終わりと足取りを共にする、若気の至り。その滑稽さと儚さ。雨の中の噴水という、水の一点を通して見え隠れする若者たちの躍動。

頼りなくも瑞々しいその行いには、真夏が去った後の冷ややかな空気とともに、いわれのない皮肉が交じる。

この作品が巻末に置かれていることにも、個人的には意味を感じてしまう。『真夏の死』という強烈な題名を持つ作品集が、最後には「夏の盛り」ではなく、どこか季節の移ろいを思わせる雨の気配のなかで閉じられる。

雨の日に読んだこともあり、その余韻は深く、美しく心に澱りのように沈殿していく。

総じて、これらすべての物語の畳み方。

事柄としての明白な結末を提示すること以上に、そこにあるのは容赦のない、そして鮮烈極まる切れ味。だからこそ、閉じられた本の向こう側に広がる余白は、どこまでも深く、不穏な豊かさに満ちている。

とりわけこの短編は、驚くほど鮮やかに物語を閉じるのが印象深い。それはすべてを説明し尽くすということではない。むしろ、物語を閉じる瞬間にこそ、読者のなかではじめて別の物語が動き出すというような曖昧なモノ。その余白の残し方に、この短編集の凄みがあると感じる。

人生の一瞬一瞬に宿る、崩れやすい仮構の秩序。

三島の描く夏は、いつでも眩しく、そしてどこまでも残酷。

生命がもっとも輝いて見える場所で、その輝きは同時に、死や喪失の影をいっそう濃くしていく。だから『真夏の死』を読み終えたあとに残るのは、単なる夏の記憶ではない。眩しすぎる光を見たあと、しばらく目の奥に残り続ける残像のようなものなのでしょう。

 

探幽:余白に切れ味を残す筆致の鋭さ、夏と抜群の相性を残す

 

34乾いた美しさ
44湯気がしとどな〜なだれおちる。
67些細な椿事がゆるす
147そのポーズは思い出の
179そのいかめしい静けさは限りなく
190われわれはこういうとき
198朝子は気づいて〜感じるのであった。
228朝子には事実〜判然とする。
230ああいう事件に〜ではない。
270彼にとっては〜思われた。
300ああ、たとえ自分の〜ならないのだ。
324目をつぶっていても〜湛えている。

『真夏の死』の人物たちに漂う、言葉になりきらない感情や身体への意識をもう少し深く追いたくなったとき、『仮面の告白』は別の角度からこちらを見返してくる。そこでは「語ること」そのものが、すでにひとつの仮面になっている。

『真夏の死』で感じた、あまりにも美しいもののなかに潜む不穏さは、『金閣寺』ではさらに巨大な形を取る。美しいからこそ壊したくなるという倒錯した感情もまた、三島文学の底を流れるひとつの水脈なのだと思う。

『真夏の光線〜伊勢原編Ⅰ〜』|「ホテルすかいらぶ」、夏の木漏れ日と荒廃のあいだ

『真夏の光線〜伊勢原編Ⅰ〜』

当初の目的地とは逸れたものの、赴くままに向かうが吉日。

今回は台風の余波が残る渦中、荒天の間に訪れる運試しの天候サバイバル。

そうした賭博的な天候から、徒労を覚悟した冒険は憚られるため、近郊の中での気になる箇所を拾い上げる。

そんな前哨戦としての「ホテルすかいらぶ」。

散策の道中、そこまで惹かれるわけでもないが、気にはなる。

何より、放置された車が迎えるその景観と日差しの瞬き。遮光する木々の纏わりが誘いを拒めずに手招きする。

興味の大小は少なからず。それでも思いの外見どころが多く、何よりも木漏れ日が空間の波長と見事に同期する。

ホテルに関する概要から。

ホテルすかいらぶは神奈川県伊勢原市にあったラブホテル。新善波墜道脇の善波ホテル街に位置する。「ホテルSらぶ」等として紹介されていることもある。

1965~1975年に開業。

10棟あまりのコテージから構成されるホテルで、「すかいらぶ」の名称は1973年から1979年まで地球を周回したアメリカ合衆国の宇宙ステーション「Skylab」に因むらしい。「lab」と「love」、宇宙ステーションのドッキングと男女の結び付きをかけたものと考えられる。

閉業時期は2004年2月とも2007年頃とも言われるが、1993年~2002年まで電話帳に記載が見られるため、2002~2003年頃に閉業した可能性が高い。

外壁はほぼ損壊し、建物としての体は成していない。

晒された内装と朽ちた剥き出しの構造。場所が違えば遺跡と言われても遜色がないような景観の退廃。

かつて放火があったのか、その痕跡も散見されるが、今となってはその損壊も自然と同化し始めている。

外壁にはグラフィックが散見され、木々の生い茂る隙間から漏れる日差しが陰影を際立たせる。

アンニュイな外壁の色彩もその不均衡さを際立たせ、夏の木漏れ日がとにかく印象深い。

色彩の荒廃と建築の退廃。そこに自然の色彩が介在し、光の揺らぎと調和する。

かと思えば光を遮ることで、不気味な陰影を際立たせ、滑らかに沈み込んだ質感の階調の変化が、暗がりに浮かぶ。

暗がりと紅という対比の溶け込みは、私の好む色調であり、不穏な世界への繋がりを予感させる。

これほどまでに強い日差しを遮る木々の隙間から漏れ出る光線が眩く、色彩の淡い揺らぎを鮮明に導く。

夏でなければ決して得られない、光と色彩の調和。

余白を滲ませ、浮かび上がるような快活とした光が美しい。

カーテンの残像が風を想起させ、闇の傍らで潜む気配を醸し出す。恐怖というよりも神秘に近い気配。

スプラッター的な残滓の残り香と、タイルの反射により、作為的で人工的な闇のネオンが表出する。

つづく。

目的地へ向かう途中で、予定にはなかった場所に足を止める。廃墟を巡ることには、そうした寄り道の連続のようなところがあるのかもしれない。『新・廃墟の歩き方 探訪編』には、その先で出会う風景が静かに蓄積されている。

廃墟の歩き方2 潜入編

廃墟の歩き方2 潜入編

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廃墟を訪れるたび、そこには建築や歴史だけでは説明しきれない時間が残っているように思う。その時間を別の場所でも辿ってみたくなったとき、この本は静かな地図のような存在になる。

『武道館』、アイドルという「仮面」の向こうにある生身の人間

『武道館』

34信じられないことって
74男の人って
90突然、頭の中に
98大人になればなるほど
114無料で手に入るものとは
124最後の砦みたいなもん
126限りあるものから何か
127イメトレという〜退屈になっていく
189女性アイドルファンは
199今この試合を観ている
247今目の前にあるほとんど
257これまで話してきたこと

『推し、燃ゆ』がファン目線だとすると、こちらはアイドル目線。

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推す側と推される側、双方の視点から浮かび上がる関係性の妙が、実に見事な表裏を成している。

アイドルが考えるアイドル像、幸福、そして人間らしさ。そうしたごく一般的な少女がアイドルになり、抱く葛藤や喜び。それが朝井リョウの手にかかると、これほどまでにソリッドでありながら融和的な面白さを孕んで描き出される。

『何者』が出世作として真っ先に浮かぶ朝井ワールド。これも映画として最初に観た時、普通の学園ものと一線を画し、結末の衝撃さもさることながら、伏せる箇所を変えるだけで、淡々とした日常がこうも違った景色として立ち現れるのかと驚かされた。

『武道館』でアイドルが「見られる存在」として揺らぐ姿を読んでいると、『何者』で描かれた、他者の視線によって自分自身まで変質していく感覚が重なってくる。朝井リョウが描く「人から見た自分」という主題を辿るなら、ここはやはり避けて通れない。

そこからも何作か読んだりはしていたんですが、語り口が面白いことからラジオなどでも耳にする機会が増え、この作品は『推し、燃ゆ』を探していた時に見つけた。

”推し”について関連がありそうなこと、最近フルーツジッパーにハマっている身としては激熱にほかならない。

主人公の幼少期に始まり、学生生活、アイドルとして、徐々にその歩みをもっての日常が語られていく。

何より目に浮かぶ光景の描写や表現が鮮烈で、開けた風景が眼前に一気に広がる。

とりわけ場面転換の意匠が見事。唐突な景色の分断が、驚くほど冴えわたっている。通常、これほど場面が飛ぶシーンが重なれば、混乱を招くか勢いが削がれるはずだが、本作ではそれを微塵も感じさせない。 むしろ効果が倍増しているような錯覚すら覚え、感情を前進させてくれる。

特に終盤でのそれは半端じゃなく、まるで映画を観ているかのような鮮やかな幕引きに至る展開。 ラストに向けた怒涛の畳みかけは、まるで自らが武道館に立っているような、あるいはライブに立ち会っているかのような臨場感を強いる。 この圧倒的な体感には、ただ痺れるばかりだ。

あとはアイドル側の葛藤の描き方。 かつては一般人であった彼女たちが、ある日を境に一般社会から切り離される。 しかしそれはあくまで疑似的な境界にすぎず、実際には一人の生身の人間。だからこそ二つの側面を同時に内包し、平野啓一郎の説く分人という概念を思い起こさせる。

アイドルになった瞬間、人は別人になるわけではない。それでも、誰と向き合うかによって違う自分が立ち上がるという感覚は、『武道館』の彼女たちを考えるうえで、「分人」という考え方と不思議なほど響き合っている。

その様相もアイドルの数だけあり、出てくるメンバー(当初は6人)、彼女らの年齢や生い立ち、思惑の祖語により変化が生じる。

その過程の描き方が妙に現実的に映り、自分の内面に秘める衝動と周囲に打ち明けることのバランスも極めて秀逸。

小難しい利権や大人の道理で動いているのは事実として、そこで動かされているアイドル達自身は同じ道理で動いていない。

主人公・愛子がアイドルを目指した理由。

「私はただ、歌いたいだけ、踊りたいだけなのに」というフレーズにすべてが凝縮されている。彼女はただ、純粋にアイドルという存在に憧れていただけ。

逆に、アイドルになりたかったわけではない、というメンバーが存在するのもリアルな対比であり、それぞれの選択、別々の歩みにも確かな説得力を付与している。

序盤で一人のメンバーが脱退するエピソード。その当時に抱いた感覚と、終盤に差し掛かってから感じる色合いはまったく異なって見える。思春期から大人へと移行する、あの不穏で美しい葛藤が見事に織り込まれている。

アイドルという存在に対し、私たちは同じ人間として同一視できないような、一種の信仰に近い錯覚を抱きがちである。

 しかしいずれアイドルを卒業し、それぞれの生を営んでいく。永遠など存在しない。だとすれば、どこか一線を越えた先で、アイドルという仮面は必ず剥がれ落ちる。 それは仕事における肩書と同様、いずれ失われてしまう記号にすぎない。

なぜそこまで神格化してしまうのか。その理由は私にも判然としないが、生身の人間としての視座が抜け落ちることの危険性は、重く受け止めるべきだろう。 それが正のエネルギーとして昇華されているうちはまだ良いが、ひとたび負のそれに転じた時、双方に幸福な結末が訪れるはずもない。

日常と非日常を往還する葛藤。「ただ歌いたい、踊りたい」という衝動は、誰かを好きになり、衝動的に行動してしまう心の動きとも重なり合う。

推している側も同様。

衝動こそが人を突き動かし、また他者を動かす。 このような巨大なエネルギーは、時に負の側面へと引きずられがちだが、この物語を読むと、それは絶対に正の力として世界を照らしてほしいと願わずにいられない。

時代が変わり、アイドル像も変わる。

それでも、ラストの光景とそこに流れる詩。世代を超えて受け継がれる意志のようなものこそが、彼女たちをアイドルたらしめる養分となる。

誰かを糾弾することではなく、何かに光を見出すこと。それこそがアイドルであり、推すということの本懐ではないだろうか。 憧れを抱く理由は千差万別だが、最後には美しい光画に包まれるような、万人の幸福を祈りたくなる結末と思いたい。

では。

 

探幽:アイドルという存在の淀み無き思いこそを尊重したい

 

『武道館』で感じた「自分ではない誰かとして見られること」の違和感は、『何様』にも別の形で流れている。朝井リョウの小説では、人間はいつも自分だけでは完結せず、他者の視線によって少しずつ輪郭を変えていく。