『シラート』
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失踪した娘を捜すため砂漠のレイブパーティに参加した父と息子の旅の行方を、奇想天外なストーリーとクールなダンスミュージックを融合させて描き、本国スペインをはじめヨーロッパ各国で話題を集めたロードムービー。
ルイスは砂漠でのレイブパーティに参加したまま行方がわからなくなった娘を捜すため、息子エステバンとともにモロッコの山岳地帯から砂漠の奥地へと車を走らせる。やがて彼らは現実と幻覚が混濁するような野外レイブ会場にたどり着くが、そこにはすでに娘の姿はなかった。父子はレイブの参加者グループを追い、娘が向かったと思われる次のレイブ会場を目指すが……。
父ルイス役に「パンズ・ラビリンス」のセルジ・ロペス。「ファイアー・ウィル・カム」のオリベル・ラシェが監督・脚本を手がけ、製作にはスペインを代表する名匠ペドロ・アルモドバルが名を連ねた。タイトルの「シラート」はアラビア語で「道」を意味し、宗教的な意味においては審判の日に天国と地獄の上に架けられる細い橋を象徴するとされる。2025年・第78回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、審査員賞など4冠に輝いた。第98回アカデミー賞では国際長編映画賞と音響賞にノミネート。
映画体験としては紛れもない傑作ながら、もう一度観たいかと言われると何とも言い難い。
事前の予告などから、興味しか無い状況で、とにかく気にはなっていた作品だったのですが、まさかの角度から殴られることになろうとは。
話の体としては娘を探しに旅に出るロードムービー。ですが、中盤からはもはやどこを目指し、何が目的なのかもわからなくなるような錯綜感の中、旅だけが続いていく。
冒頭から、「天国と地獄をつなぐ橋があり、それは針のように細く、剣先のように鋭い」的な文言が出てくるのですが、これは何某かのたよりになりそうだと思いつつスタート。
そこから凄まじい迫力のサウンドシステムを組み立てるドアップクローズが映し出され、その後レイブが幕を開ける。
この光景は圧巻でしたね。どんな音が鳴るのかという好奇心以外の何ものでも無いというようなスピーカーの佇まい。こんな環境で一度でいいから爆音の音楽を聴いてみたいものです。
そして始まるレイブシーンなのですが、他のシーンも含め、音の使い方が斬新で、音が記憶に残る場面が多いこと。
映画前編を通しての渾然一体感が半端なく、常に、不穏で揺らぎのあるビートがバックで流れ、悪い予感が背景にあることを常に留意させる。
そんなレイブについて。
1980年代後半のイギリスで産声をあげた「レイブ(Rave)」は、単なる野外音楽イベントの枠を超えた、ひとつの精神文化。
その根底にあるのは、PLUR(Peer、Love、Unity, Respect=平和、愛、団結、尊重)という思想。執拗に繰り返される電子音楽の重低音(ループビート)に身を委ね、夜通し踊り続けることで、人々は日常の「自我」を忘れ、周囲と溶け合うような恍惚感――トランス状態――を共有する。
それはかつて、太古の部族が火を囲み、太鼓の原始的なリズムで神へと繋がろうとした「集団儀式」の、現代における再来とも言える。
ハウスやテクノ、トランスなど、クラブなどでも音楽に陶酔するというのはあるものですが、レイブはそれ以上に音楽を起点とした陶酔の中に身を置くという精神的な儀式味を帯びた体験かと。
音楽を聴くと、基本的にはループが繰り返され、作品内でも言われる、「聴くための音楽でなく、踊るための音楽だ」というのはまさにそれに尽きる。
なんと、そのレイブ会場に娘が紛れているのではということで父親と息子が探しに来るんですよ。
異世界への入口、未知との遭遇。この親子からしたら完全にアウェイな世界に足を踏み入れるわけですからね。
そこで踊る人々の中、登場人物たちにネームクレジットが入る様が異様にカッコよく、この人たちが物語で主要になっていく人なのかと思いながら引き込まれていく。
その後軍隊の介入があり、その集団を逸れ、娘を探しに行くことになるのですが、思えばこの時点から自らの選択が始まっていたのでは。
レイブカルチャーというのは陶酔と、日常からの離脱を鑑みているとすると、意識的に日常から逸れるという行為を選んでいるという、脱社会的な側面も見える。
敷かれたレールをいくのか、否か。
この時からその選択は開始されていた。
序盤は意外にも喜怒哀楽ありな、ほのぼのロードムービー感があるんですよね。見どころというか、景観の美しさであったり、雄大な自然であったり、スリリングな岸壁、砂漠のドライブ。
一転するのは豪雨の崖山にて、タイヤがハマってしまった辺りから。そして、唐突な展開がその後に・・・。
まさかあのシーンがこんなところで起きるとは思わなかったですね。仮に起きたとしても、何かしら救いの朗報があると思っていたら、むしろ状況は更に悪化していくという。
この怒涛の運命に翻弄されるというのがシラートという道そのもののように思えてしまう。実際に道や白線といった細い線を想起させるショットも挿入されてましたし。
あの時こうしていれば、こんなことしなければ、そうした過去への悔いや後悔というのは結果には何も寄与することは無く、起きてしまえば、それが全て現実となってしまう。
無慈悲、それこそが人生なわけで、だれも一寸先すら予期することは出来ず、あるのは現実を直視することのみ。
それを改めて思い知らされましたね。
こうした無慈悲で残酷な現実という意味では真っ先に浮かんだのが「S ・クレイグ・ザラー」作品。
彼の撮る作品も容赦の無い現実を突きつけてくるというところがあって、違いとしてはブラックユーモアというかコメディ的な要素が少々ある分、少しは気の緩まるところもあるくらいでしょうか。
とはいえ、下敷きには確実な現実が存在し、そこから目を背けることが出来ないという性質は似通った雰囲気があり、何より、映画としての質感に非常に近い手触りを感じたんですよね。
一度歯車が狂えば、状況はただひたすらに悪化の一途をたどるという無慈悲な現実の可視化。全編を支配するじっとりとした焦燥感と、一寸先すら見通せない闇を這うような旅路は、あの砂漠の白線の上を歩く息苦しさと驚くほど地続きにある。
その後はもう気の抜けない旅が続いていくのですが、これが非常にストレスフル。
体調の良い時に観たほうが良いと思いますよ。それくらいままならなさと絶望感が支配した旅路が続く。
果たして希望は見出だせるのか、ということがこれでもかと起き、一行はどうなってしまうのかと常に肝を冷やすような展開が待ち受ける。
こんな映画体験初めてでしね。ということで百聞は一見に如かず。
物語はこの辺にして、映像面。
どこか肌にざらざらと触れるような、奇妙な生々しさを帯びているのが印象的で、これは全編がデジタルではなく、16mmフィルムで撮影されたものによる効果に見える。
荒涼としたモロッコの砂漠を舞う細かな砂塵と、奇妙なほどにシンクロする。強烈な太陽光に晒された白茶けた大地、そして夜のレイブ会場で焚かれる血のような赤。それらの色がフィルム特有の柔らかな階調で定着され、スクリーンは単なる風景ではなく、ひとつの触覚的な体験へと変わる。
監督のオリベル・ラシェは、本当は35mmでの撮影を望んでいたらしく、予算の都合、そして過酷な砂漠へ繊細なアナモフィックレンズを持ち込むリスクを考慮し、あえて機動性の高い16mmを選んだという。
デジタルカメラが現実をクッキリと記録するものだとしたら、16mmフィルムはそこに流れる空気や、登場人物たちの焦燥感といった目に見えないものを吸着する。
夕闇のなか、粗い粒子の向こうに浮かび上がる父子のシルエットを見つめていると、彼らのロードムービーが、物理的な移動であると同時に、精神の奥底へと潜っていく巡礼の旅なのだと、言葉を介さずに理解させられる。
そこに音楽も効果的に加わる。完全に映画全体を支配し、シンクロということば以上に映画における歩みと一体化しているように感じられる。
手掛けたのはカンディング・レイ。彼の鳴らすテクノミュージックは、単なる劇伴(BGM)の域を完全に逸脱しており、物語を装飾するものではなく、むしろ主人公たちが歩む人生そのものの構造を可聴化するための装置として機能する。
意味の剥ぎ取られたループビートが、かつて砂漠の暗闇で脳を揺さぶったあの不穏な脈拍を鮮明に呼び覚ます。映画館を出た後もなお、終わりなきフロアの残響に身を委ねるための、冷徹なミニマリズムがここにある。
テクノという音楽には、クラシックのような起承転結も、分かりやすい救いのメロディもない。ただ冷徹なまでに一定のビート(脈拍)が反復され、その引き延ばされた時間のなかで、私たちは否応なしに「今、ここ」の身体性に引き戻される。
この音楽の効能は、観客の脳から「意味を探そうとする思考」を奪い去ることにあるのではないか。終わりのないループビートは、娘を探して砂漠を彷徨う父子の、一歩、また一歩と狂おしく繰り返される足音と完全にシンクロしていく。
始まりも終わりもないフロアに放り出され、ただ鳴り響く音に身を委ねて歩き続けるしかない感覚。それこそが、私たちが生きるという人生の巡礼そのものの不条理であり、ダイナミズムと重なる。暴力的な低音が私たちの身体に直接訴え、レイブというもの、精神性がそうした根底に漂う。
そして音に溺れるという意味。
耳を劈くほどの重低音によって、父親の執着や、観客の安易なサスペンス的予測といったエゴのノイズをすべて叩き潰す。日常の輪郭が溶けていくカオスの先にしか、本当の”生”の核心や、不確実な世界を受け入れる覚悟は見えてこない。
要するに意味を見出すという行為そのものを拒絶し、ただ生を享受するという体験。
宗教的な概念や、信仰的なところも少なからずはあるかと思いますが、それ以上に日常からの逸脱の装置としての音楽こそがレイブの本質にはあるのではないかと。
だとすると、人はすがってもなお救われることが無いというのが現実には存在し、だからこそ、それを超越した音のさ中に身を置きたいと思う。
現実は過酷で、それだけだとしたら、生き甲斐が無いじゃないですか。
それでも道は開けないかもしれないし、救われないかもしれない。でも、やっぱり負の側面に怯えているだけではつまらない。
そんな生という道を土台にしたロードムービーなのかと思うと頷けるラストでもあるなと。
あのラストの後もどこに連れて行かれるのか、その先は希望なのか、絶望なのかということはわからないが、それもまた人生なわけですよ。
引き合いに出される映画として、『恐怖の報酬』や『マッド・マックス怒りのデスロード』などがありますがが、これもある意味では理解できる。
後半での地雷原地帯での闊歩は『恐怖の報酬』における、橋のシーンであり、行って帰ってくるだけの『マッド・マックス怒りのデスロード』に対し、行って帰ってこれないだけの『シラート』。
blcrackreverse.com
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いずれにせよ、音に驚かされ、常時、音に気分をかき乱されることは間違いのない作品でもあり、質感のある映像の迫力も含め、是非映画館での体験が望ましい一作。
何度も観たいかと言われると、今のところはお腹いっぱいな部分がありますが、忘れがたい映画体験になるのは間違いないことでしょう。
それでは。